福島県教育センター所報ふくしま No.115(H07/1995.7) -003/042page

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の立場で話し合い,相互の理解を深め,相手の立場を思いやることも積極的にここに位置付ける必要があろう。「いじめ」問題などはこの点の欠落が大きな原因とみられるからである。

 教育愛が以上のようなものであるとするならば,これを敬遠したり軽視したりすることはできないであろう。

2 学校教育における教育愛の拡大と発展

 教育愛というと,とかく献身的な「与える愛」だけがクローズアップされやすいが,それでは教育愛の意義は矮小化され,毎日の教育活動には関わらない単なるお題目になりかねない。そこで,まず「愛」とは何かを確認しておきたい。

 それについては古来さまざまな考え方があるが,われわれには次の定義が示唆に富む。「愛とは対象に価値を感じ,それに引きつけられること」(渡辺昇一編『ことばコンセプト「事典」』第一法規,平成4年)というものである。親子の愛などはまさにその典型で,それが無意識のうち発現するものと言えよう。

 ところで,親子の愛では生後しばらくは親の「与える愛」が主導であるとしても,成長するにつれて次第に「与える愛」は子どもの「求める愛」に対応するのが自然であろう。また,愛の対象は新生児では母親そのものであろうが,成長するにつれて拡大・発展し,母親が与えるもの,自分の身のまわりのものへと広がっていく。この拡大と発展は学校教育においてはさらに進む。子どもはもともと学びたがっていると言われるのは,この「求める愛」の表れにほかならない。したがって,各教科の授業や種々の教育活動は,それに応えるものでなければならない。それには教師の「与える愛」に支えられた適時・適切な指導(支援・援助)は不可欠である。

 つまり,教師の指導はつねに教育愛(与える愛)に支えられていなければならないのである。こう言うと,教師の仕事,とりわけ毎日の授業はきわめて息苦しいものと感じられそうであるが,そうではない。というのは,先の定義からも明らかなように,教師の教育愛は子どもそのものに「価値を感じ」,子どもの成長につながる学習指導に「価値を感じ」て指導に当たることにほかならないからである。

 もし,それに何の「価値をも感じない」とするならば,それは教育活動とは言えないであろう。したがって,授業についていけなくて毎日が苦痛の連続になっている子どもの心の痛みに,教師も痛みを感じるのは教育愛の表れにほかならない。このように,教育愛は日常の教育活動でも意識的無意識的に自然に機能している場合が多いのである。

 そうだとすれば,敢えて「教育愛」などを持ち出す必要はないとも言えそうである。もちろん,そうではない。その理由は大きくは二つある。

 一つは,われわれは知らず知らずのうちに教育愛を歪めている場合があるということ,もう一つは,学校における教育愛の実現には,きわめて高度な教職の専門性が要求されるということである。

 まず,前者について考察する。

3 「子どものため」という名の教育愛

 親や教師は熱心であればあるほど,「子どものため」ということで意欲的にさまざまな教育的行為を行なう。これこそ「教育愛」の表れにほかならないであろう。しかし,それが本当に将来をも見通した「子どものため」になっているのか,となると疑わしい場合も少なくない。

 これにも二つの場合があるようにおもわれる。一つは,本当に「子どものため」と考えでやったことでも,見通しの甘さや方法上の問題などで実現しない場合 あるいは予想もしない結果になってしまう場合である。こういうことは家庭でも学校でも常に起こりうることである。だから教育は


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