福島県教育センター所報ふくしま No.115(H07/1995.7) -004/042page
難しいのである,この問題については項を改めて考察する。
もう一つは,「子どものため」と言いながら,実はそこに大人の都合が見え隠れする場合である。例えば,本人(子ども)のためということで,何でも望むものを買い与えたり,法外なお金をもたせたりする場合である。また,本人の将来のためと言いながら,実は親の願望や価値判断で進学先を選ぶという場合などである。
学校教育の場合では,例えば,受験競争社会では「子どものため」には詰め込み授業も止むを得ないとして,授業の質を高めることの意義を軽視するようなことはないだろうか。それを軽視すれば,本来の学力が身につかないばかりか,受験学力も低迷せざるを得ない。この点についても,後でもう少し補足したい。
また,希望する大学に入れないのは不幸なことだとして,何はともあれ受験学力を高めるべきだとする意見が大人の側にさ、え聞かれる場合がある。しかし,高校生が毎日の授業の中で自分なりのものの見方や考え方を高め,その過程で将来の自分の進路についても考えるという本来の教育が軽視されるとするならば,それは本人にとってはさらに不幸なことであろう。学校教育法(第42条)には高校教育の目的の一つに,「社会において果たさなければならない使命の自覚に基づき,個性に応じて将来の進路を決定させ,・・・」とある。これを単なる建前として空文化させてはならないであろう。
何が「子どものため」なのかを子どもの視点から改めて考えてみる必要があるように思われる。それは,とりもなおさず,教育愛の再吟味にはかならないであろう。
4 教育愛の実現と教職の専門性
教育愛というと,どうしても献身とか情熱というイメージが真っ先に浮かぶのは当然であろう。「対象に価値を感じて,それに引きつけられる」という点では教育愛の場合も変わりなく,「引きつけられる」度合が強い場合には自然に献身的かつ情熱的にもなるからである。
しかし,そこだけでとどまるならば教育愛は空転したり,歪められたりしないともかぎらない。そこで次に重要になるのは,教育活動において教師が何に「価値を感じ」るのか,ということである。個々の子どもに一人の人間としての「価値を感じ」ることが大前提となるのは当然であるが,その上に立って,より具体的な教育活動の場面で明確にとらえる必要がある。単なる献身的な意欲や情熱だけでは教育愛は実らない。
授業の場合であれば,まずは教師が指導しようとする単元の学習によって,個々の子どもがどのように成長することを単元目標とする(価値を感じる)のか,そのために子どもが具体的に何をどのように学習することを指導目標とするのか,などの検討を深めることである。それはまた,学習者である子どもの「求める愛」を喚起し,それを踏まえたものでなければならない。
このような授業展開はきわめて奥行が深いだけに,高度の専門性を必要とし,それを実現するための授業研究はどこまで深めても終点はない。これこそ教職の専門性の中核となる部分である。このような教師の取り組みによってこそ,子どもの「求める愛」も実現され,教育愛(与える愛)も十分に実を結ぶことになるのである。
今日「新しい学力観」とも関わって「関心・意欲・態度」の重要性が指摘されているが,それはここでの文脈で言えば,子どもの「求める愛」を大切にすることにほかならない。これと関わりなく教師が一方的に「与える愛」を発揮しようとすれば,それは「新しい学力観」に逆行するだけでなく,教育の基盤である教育愛をも無視することになるのである。
また,子どもの「求める愛」を踏まえるという