福島県教育センター所報ふくしま No.115(H07/1995.7) -005/042page

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ことは,個性を生かし個性を育むことにつながるはか,自己教育力の育成にもつながりやすい。自己教育力などの高い次元の能力は,単に辞書の引き方や資料の活用の仕方などを一律に教えさえすれば(もちろんそれらは重要であるが)育つ,というものではないからである。

 「新しい学力観」が求める学力は自己教育力を包含するだけに,それを追究しようとする授業は受験対応にも不利にはならないはずである。本県では成績上位の生徒の伸びが思わしくないと言われるが,そのような生徒に必要なのは手取り足取りの指導ではなく,自己教育力なのである。

 教師を目指す学生にすぐれた授業(ビデオ)を見せると,自分が習った高校(いわゆる受験校)の先生の授業もこれに似ており,その先生の科目は受験でも成績がよかったという話をしばしば聞く。それは当然なのである。朝自習や夏合宿の工夫だけでは受験学力さえ大きくは伸びないのである。

5 「求める愛」と子どもの成長

 これまでの教育愛をめぐる議論では,とかく教師の「与える愛」に傾斜し,学習者の「求める愛」に対する視点が希薄だったように思われる。これでは「新しい学力観」との接点も見えにくい。

 子どもは一人の人間として立派な人格をもった存在であり,自分なりの考えや個性をもっている。教育はこの厳然たる事実に基づく営みである。したがって,個々の子どもが何に「価値を感じ それに引きつけられる」のかという「求める愛」の中身もそれぞれ異なってくる。教師の教育愛(与える愛)はこれを大切にし,育むことにほかならない。したがって,真の教育は自ずから個佐教育となり,真の学力は個性的にのみ形成されるのである。

 学習内容の基礎・基本も,それが本当に一人ひとりのものとして発展性をもって定着するには,個佐的にならざるをえない。答えは一つといわれる算数・数学でさえ例外ではない。公式を機械的に暗記しているだけでは発展性をもって定着しているとは言えない。それがどのような日常の事象に見られるのか,他の既習事項とはどのような関連になるのか,したがってそれを学習することにどんな「価値を感じ」るのかとなると,自ずから個性的にならざるを得ないのである。

 いわんや国語や社会においてはなおさらである。「確かな学力」とは,確かに記憶されているだけの学力ではなく,共通の内容が個性的に定着している学力なのである。

 教師の「与える愛」はこのような教育の営みそのものに「価値を感じ」て発現されるものであり,教科内容に関して教師自身が感じる「価値」をそのまま子どもに与えることではない。授業では教師も自分も感じている「価値」を子どもに説明することはあるし,それは必要なことでもある。しかし,それはあくまで子どもの「求める愛」を引き出し,高め,発展させるためである。また,今日の不登校や「いじめ」の問題は何らかの形で授業のあり方と関連している場合が多いことは周知のとおりである。原因はともあれ図らずも授業に何の「求める愛」ももてなくなっている子どもにとって,毎日何時間もの授業に耐えることは大変な苦痛であろう。

 今,教育愛はその点でも厳しく問われているのである。

むすび

 ここでは授業の問題に焦点を絞ったために,≪教育愛≫といいながらも,子ども同士の対等の愛(フイリア)についてはその重要性を指摘するにとどめざるをえなかった。それをも含めて,教育の基本的なあり方が厳しく問われている今日,≪教育愛≫を授業の本質にも直接かかわる問題として問い直すことは,ますます重要になっているように思われる。


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