福島県教育センター所報ふくしま No.116(H07/1995.11) -004/042page
ことができるであろう。既有の知識をフルに動員しながら, それを自分たちの説明に必要な知識として何とか組み替えよう としている子どもたちのこの意欲的な姿勢こそ今日求められている力であり, 自己学習能力といわれるものの中身である。
(註4)I氏の授業は,子どもの中からそのような可能性を引き出し, 生き生きとした学習活動を創り出した典型的事例の一つと言えるであろう。 紙玉でっぽうの学習の後,このクラスの子どもたちは,朝,家を出かけるとき 「行ってきます」の挨拶の後に,決まって「今日もがんばってくるわ」 という言葉を付け加えるようになったというエピソードは,学び合うことの面白さ, 楽しさが子どもたちの中にしっかりと根付いたということの何よりの証拠であろう。 そのような授業をぜひ創り出したいものである。
3 学習への自信を引き出し,発展させる授業
学ぶこと,わかることの楽しさの体験を通じて,自ら学んでいく力, あるいは自ら必要とする知識を創りあげていく能力を高めていくためには, 何よりも学習主体の能動性,自発生が求められるが, そのことの実現は口で言うほど容易ではないであろう。 授業者の授業観や教材観,あるいは指導方法や指導技術などについての 厳しい見直しが不可欠であろうし,学習者の心の動きや意識の実態の把握 のしかたも問われるであろう。本号に収載されている学習指導部の小学生 対象の意識と行動の 実態調査の中には,昨年度の中学生の調査と同様, 興味深いデータが示されている。小学生においても2割以上の子どもが先生から 「ほめられたことがない」と感じている事実は, いったいどのように解釈したらいいのであろうか。
しかし,一方,高校段階になると,当然ながら 授業のあり方そのものに一歩踏み込んだ問題意識 をもっていることが伺える。ある高校生は,一昨 年の朝日新聞の投書欄に「なぜ,みんなで自分の 意見を出して話し合っていくような授業をしない のだろう。学佼の授業で習うような知識は,受験 参考書に何倍もわかりやすく説明してある。せっ かく一人ひとりの考えの違う人間が40人もいるの に,その考えを表現し合う場がほとんどない。」 という一文を寄せている。おそらく,これも教室 の現実の姿の一部であろう。本センターの先の調 査でも似たようなことが指摘されているが,どの ように克服するかは,今後の課題である。
中学生を相手にした無着成恭氏(以下M氏と略) の詩の授業の実践例は,そういう意味では,大き な示唆を与えてくれるように思われる。(註5)M 氏の授業には,導入部,展開部,終末部それぞれ に特微が見られる。まず導入では,作品の視写や 音読を通じて学習者個々の内発的な動機づけを図 り,展開部においては,子どもたちの経験や生活 感覚に働きかけながら,作品の表現の細部の読み をていねいに行い,授業の終盤においては,作品 の核心的な問題に一気に迫るという手法を取って いることが一つの特微である。しかし,いま問題 にしたいのは,M氏の場合,授業の展開過程の随 所で,子どもたち一人一人に読みの学習に対する 小さな自信を持たせつつ,集団で読み深める学習 の楽しさや充実感を強く印象づけている点であろ う
たとえば,草野心平の「春の歌」の授業記録の一部を見てみると,次のとおりである。(下線部は引用者)
- T; よし,いいぞ。その通りなんだ。 さて,その次ぎ,《みずはつるつる》 って何だ?
- C;蛙はI水に飛び込んだ。そしたら,水がつるつるしてたんじゃないの。
- C;私だって.朝起きたら顔を洗うでしょ。蛙は冬眠から目を覚まして,まぶしいって思って,嬉しいって思って、生きるってこと確かめるた