福島県教育センター所報ふくしま「窓」 No.118(H08/1996.7) -005/042page

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う読む」「子どもたちは尾崎豊に何を求めるの か」といったテーマの話がちりばめられた校内 研修も楽しいだろう。音楽や美術の教師が自分 の作品を同僚に紹介し、制作過程の苦悩と創造 の喜びについて語るといった形の校内研修も設 営されていい。教師一人ひとりが各自の研究テ ーマをもち研鑽を積むのは、望ましいことであ り素晴らしいことだ。一見したところ授業とは 無縁に思われるテーマの研究報告が、根源的な ところで同僚の知的関心を触発し、教師の自己 変革を喚起し、教室の授業を活性化するだろう。 研修のマンネリ化は、教師の自己変革と成長を 阻害する。校内研修にあっては、教師同士の相 互触発的な知的交流を可能にする個性的でユニ ークなスタイルが創造されるべきである。

3 研修のモラル(自己変革の倫理) 

 教師は、何よりもまず人間である。現代哲学 は、人間のことを「実存(じつぞん)」と呼ぶ。 実存=existenceは、「外に―出て行く」とい う意味のラテン語ex−sistereに由来する。 実存としての人間は、現在の自分を脱け出て、 自分の外に出て行き、現在の自分とは違ったも のにこれからなろうとする。人間は、自己超越 的に自己を形成するというわけだ。脱皮しない ヘビは亡びる。人間は、たえず古い自分から脱 皮しながら、新しい自分を創り上げていくので ある。人間は、たえざる自己変革を強いられて いるのである。

 教師は、大学を卒業し教員免許状を手に就職 したとき、すでに完成された教師として存在し ていたわけではない。教師は誰しも、いかなる 時点においても未完成のままであり、それゆえ にたえず自分を資質と技量に関して向上志向的 に変革しなければならない。教師は、たえず自 己脱皮を続けなければならない。教師であるこ と――それは、実践と反省によって自己が拡大 的に再生産される過程に身をおくことである。 教育的資質と技量に関しては、謙虚がすべてで あって高慢の侵入を許してはならない。向上志 向の研修による自己変革は、実存としての教師 の中味であり、不可避の義務である。

 教育における一定の成果の獲得は、つねに新 たな教育的課題を必然的に生み出す。それはち ょうど、円の内側の拡大がつねに外側の拡大を もたらすのと同じである。教師は、その課題の 解決に向けさらなる精進を迫られる。教育実践 における満足と休止、向上心の放棄は、怠惰を 意味する。この怠惰は、教育的良心の恐るべき 麻痺である。  教師が現実の自己を否定し、自分の教育的資 質と教育的技量の現実について改善と改革を志 向するのが理想主義である。教師の理想主義は、 未完成の自分の在りようを自覚症状へともたら し、たゆみなき研鑚による自己変革を要請する。 教師は誰しもが、より良き教師を憧憬する。憧 憬は、教師に現実肯定を断念させる。現状肯定 と現実への埋没は教師にとって怠惰にほかなら ず、教師としての主体的モラルの欠如を意味す る。子どもは、自分が誇り尊敬する教師のもと でのみ、学習意欲を喚起される。子どもの期待 と信頼に応えるためにも、教師は、自己変革す なわち自分の教育的資質と技量の向上に努めな ければならない。研修は、この自己変革の倫理 の実践形態なのである。

《明珍昭次先生のプロフィール》
  • 1951年 東北大学文学部哲学科卒業
  • 1954年 同大学文学部大学院特別研究生前期課程終了
  • 1975年 福島大学教育学部教授
  • 1994年 福島大学を停年退官、同大学名誉教授 福島県立医科大学・奥羽大学講師
  • 1995年 東日本国際大学教授
  • 著書 『人間の哲学』(編著)尚学社 『人間存在の探求』(共著)丘書房 『民族の現象学』世界書院 『小・中の先生たちへの応援歌』八朔社
  • 訳書 B.ダンハム『英雄と異端』(共訳)みすず書房 C.V.ボースト著『心と脳は同一か』(共訳)北樹出版 ほか多数
  • 《福島県出身》

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