福島県教育センター所報ふくしま「窓」 No.119(H08/1996.11) -008/042page
《授業で》
〇「学習の用具がそろっていない子は誰? ところで鉛筆はどんなもの持ってるの?」
〇「授業中、子どもたちはどんな顔してる? 目が輝いていないのは誰?」
〇「いつも手いたずらをして落ち着きのない子は誰? なぜそうしているの?」
〇「友達の話をみんな真剣に聞いている? 冷やかしたり、すぐ間違いを指摘したりする子は誰?」
〇「教師の指名にどんな反応? どうしてそうなるの?」
〇「子どもたちのノートの文字は? いつもていねいに書いている子は? いつも乱暴に書いているのは誰?」
〇「グループの話し合いでリーダーになっている子はいない?」
〇「宿題をいつも忘れてしまう子は? どうしてそうなの?」等々どうでしたか、自信をもって「見えている」と答えられた項目はいくつあったでしょうか。
私たち教師の誰もが、子どもたちをより深く理解して、一人一人の子どもに応じた教育活動を展開したいと願い努力しています。
「子どもと共に学ぶ」姿は、先生方の日常的な教育活動の諸場面で多く見られます。見学学習や野外の自然観察などの体験学習で、ドッジボールやゲームなど共に活動することで、給食や清掃、学級の問題を共に話し合う中で等々、いくらでもあげることができ、きわめて日常的な姿であると思います。しかし、形の上では子どもと行動を共にし、共に学んでいるように見えても、案外「子どもが見えていない」のが現実ではないでしょうか。
一人一人の子どもをしっかり見つめとらえようと努力しているにもかかわらず、なぜ「見えてこない」のでしょうか。いろいろな原因は考えられるように思いますが、その中でも、”自分の目の前にいる子どもを、どのように指導し、育てていくか、そしてどのように変えていくかという教師自身の確かな目的意識が確立されていないのではないか”ということが最も大きなこととしてあげられるようです。
「進みつつある教師のみ、人を教える権利あり」とは、ドイツのディステルウ゛ェーグの名言です。子どもを指導し、教える教師が、しっかりした目的意識をもって目の前の子どもの現実の姿を変えていこうと情熱を傾けなければ、自分の実践の中から子どもに生じている問題を見い出し、その解決方法を何とか探り出さなければならない、といった切実さは生じてこないのではないかと思います。
私たちの目の前の子どもたちが見せている姿は、実は私たち自身の姿でもあるように思います。日常生活や授業中に見せる子どもの姿は、まさに教師のこれまでの指導の結果としての姿をじっくり見つめとらえていくことは、自分自身をじっくり見つめとらえていくことに直結しそうです。