福島県教育センター所報ふくしま「窓」 No.119(H08/1996.11) -009/042page
(2)子どもを変える
今まで私は、先入観で子どもの姿をとらえていたのではないだろうか。学習内容を理解することや、知識を得ることに目が向き過ぎていたために、子どもの一面でけを見て、単に『しっかりやりなさい』と注意していたのではないか。
今日のS男の思いがけない発想やみずみずしい感性に触れて『ドキッ』とした。いつも反応が鈍いと思っていたS男が、実はS男なりにしっかり学んでいたのだ。 私のもう一歩の支援があれば、彼は本時のねらいに到達できていたはずだ。もっともっと子どもの姿をつぶさにとらえ、その子に合った支援ができるよう私自信の子どもをとらえる目を磨いていかなければならない。 S男を授業に引き込むのは私の努力次第であることを痛感した。
これは、手いたずらが多く、授業に集中できないと思い込んでいたS男の校内授業研修会での観察記録を読んだ授業者の反省です。
私たち教師は、子どものもっているよさや可能性が発揮され、生き生きと活動しているのを見るとき、教師であることの喜びを強く感じます。しかしながら、目の前の子どもたちの現実の姿を見つめてみると、前述したような姿が、いつでも、どの活動でもみられるかというと、残念ながらそうではない姿もまだまだ多くみられるのではないでしょうか。授業中、「何をやるのか、どうやっていいのか分からないでいる子」「落ち着いて学習や活動に取り組めない子」「嫌いだからといって本気になって練習しようとしない子」などなど。その様相は実に多様であり、個人差も大きいようです。
本来どんなことにも挑戦したがり、瞳を輝かせて活動するはずの子どもを、このようにしている原因はどこにあるのでしょうか。
この原因を、私たち教師側の問題とするか、それとも子ども側のものとするかによって、教師の子どもへのかかわり方は自ずと違ってくるように思います。
ややもすると、子どもの側に問題があるような発言を耳にすることがありますが、本当にそうなのでしょうか。もし、そうだとしても、子ども側の問題として片付けてしまってよいのでしょうか。私たち教師が、このような責任回避の姿勢をとっている限りにおいては、子どもの現状の姿を変えていくことには結びつかないと思います。
「教育するとはどういうことなのか」という問いかけを、私たちは再度自分自身に対してしてみる必要があるように思います。
子どものつまずきに対して、「何とか力になってあげたい」「この子をこのように変えていきたい」という教師の想いが、教師と子どもを結び付ける教育の基盤ではないでしょうか。
目の前の子どもたちの日々の生活や学習のあり様を自分の眼で確かに見つめとらえ、子ども