福島県教育センター所報ふくしま「窓」 No.120(H09/1997.2) -003/042page

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いるのは、言うまでもない。
 しかし、そのことは、何ら触れず、『密柑で考えさせるか。鳥のほうがいいか。おはじきにするか。」「具体物の方がいい。いや、半具体物でいい。」「発問は、………」等々の議論だけが盛んに行われることが多い。

 少なくとも、この教科書の意図から言えば、絶対にこの逆ではいけないわけで、そのことは何よりも先に認識されなければならないわけである。技術論は、それを前提として、そのためにどんな方法や手法が良いかという議論のはずである。

 最近は、この本質論が行われなくなっている。目標・内容論は、専門家の問題で既に、終わっている。現場は、それをどう指導するかという技術論だというのだろうか。
 これは、大きな問題だと考えるのである。
 第二に問題にしたいことは、「個に応じて」といいながら、子どもの実態のとらえ方が、一般論ですませてしまい、属人的に「〇〇さん、△△さん」の実態には、踏み込まなくなっていることである。

 学力検査も知能検査も、大抵の学校では行っている。しかし、ほとんどの教師は、最終結論の偏差値だけをみる。細部をほとんど診ないといっていい。いや、コンピュータ処理された克明な分析結果には、興味を持たないのである。よくよく聞いてみたら、見方をほとんどの教師が知らないのである。一度も指導されたりそのことを指摘されたりしたことがないという。

 ある教育委員会の担当者に、「ぜひ、こういう研修も取り上げてほしい。」と要望したら、『その程度のレベルのことは、校内研修の内容だ。」という答えが返ってきた。

 心理学が、あまり権威を持てなくなった今日ATIの話をするのは時代遅れといわれそうだが、わたしは、まだまだ、心理学を蔑ろにできるほど、動物行動学も、大脳生理学も直接学習指導を左右する程までは進んでいないのではないかと考えている。

 ATI理論で、指摘された幾つかのことは、いまでも考慮される必要があると考えている。
 たとえば、Aという子にとって、最適の学習方法が、Bという子にとっては、全く適さない。いやむしろ、マイナスに作用する学習方法になり得るということである。

 記憶力のすぐれた子・発想のすぐれた子、一致的思考の得意な子、差異的思考の得意な子、対人積極型の子・対人消極型の子、それぞれ、別々の方法でないと効果があがらない、むしろ逆効果になる場合があるということは、間違いない事実である。

 子ども一人一人の特徴をとらえ、それに適した学習方法をとって、初めて効果をあげることができるはずである。

 そのためには、知能検査の分析結果の活用、学力テストの分析結果の活用は、必須条件のはずである。それをやらない教師ではなく、やれない教師(やり方を知らない教師)をつくってしまったことを反省すべきではないだろうか。

 同じ偏差値50の子でも、観点別に診ると凸凹の激しい子もいれば、平均的な子もいる。大変な違いがあるはずである。それぞれに応じて、そのよさを生かして初めて、その子をのばすことができるはずである。

 かつて、「授業の名人といわれるようなすばらしい授業をする教師の授業を分析すれば、そのすばらしい授業のテクニックガ、エキスが解るはずだ。それを学べば、誰でもすばらしい授業ができるはずだ。」という発想で、盛ん


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