福島県教育センター所報ふくしま「窓」 No.120(H09/1997.2) -004/042page

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に授業分析が行われたことがある。
 10年近い膨大な実践授業の分析の結果は、あまりにも平凡な、どれも同じようなことだけが、取り出されて、結局名人芸を抽出することはできなかったと記憶している。当然、授業分析は自然消滅の形で、何時の問にかなくなってしまった。

 この時、わたしは、酒にたとえて、「授業とはそれぞれの先生の持味を出して、初めて、すばらしい授業になるのだろう。個性的でなければ魅力がない。ただし、アルコールが○%〜△%なければ、酒ではないように、誰もが共通に持たなければならない基礎基本があり、それがなければ授業とは言わない。 その上で、個性的でなければならないということだろう。授業分析の結果抽出されたのは、みんなに共通なアルコール部分(授業の基礎基本)だけだったといえるのではないか。名人芸といわれるものは、酒のそれぞれの味のようなものなのだろう。」と言ったことがある。

 授業分析が、その意図に反して、授業の味を抽出できなかったように、校内研修=共同研究というシステムが本来の意図とは別に、授業の画一化をもたらし「個に応じて」という授業で最も重要な基礎基木を見失わせてしまったといえるのかもしれない。

 いわゆる「新しい学力観」のもとでは、子どもの良さ、能力の特徴をより正確にとらえ、それらを生かすための支援・援助が、最も要求されることだろう。そのためには、知能検査や学力検査の分析結果の活用は、必須条件のはずである。

「その程度のレベル」という問題どころか、これからの教師には、個々の児童生徒の能力や特徴を具体的にとらえ、それらを土台にして支援・援助していく力が要求されることになるのだから、もっと真剣に取り組んでほしいと願うのである。

3 二つの提案

 (1) 授業研究における研究協議の在り方

 数年前になるが、ある学校の研究授業に参加し、「自評・質問・協議」というパターンが、一般的だが、これでいいのかと問いかけたことがある。残念ながら、梨の礫で、返答はなかったが。

 この形式で協議が行われると、質問の内容によって、協議の内容が左右されてしまうから協議の内容がトピック的になりやすいということである。

 もっと意図的に、目的をもった協議会にする必要があるのではないかといいたいのである。
 それは、最近の授業を参観すると、共同研究の所産といってもいいのかもしれないが、教科の本質からみると結構なのだが、それをこなすだけの力量がなく、おかしな授業をする教師がいるかと思うと、逆に、高度な技術を持ちながら、誰でもできる一般的授業をしたりする教師がいたりするのが目立っからである。それだけでなく、協議の内容が、技術論に終始することが多いともいえる。

 教科の木質論と技術論とは、確かに一体でなければならないが、個々の教師の力量から考えると、一旦分離し、それぞれについて協議してから総合するという手順も重要なのではないかと考えるのである。

 理想としては、こうありたいと思っても、それをこなすだけの力量が伴わないで、児童生徒を混乱させるだけなら、もう少し、レベルを下げることも検討したいし、逆に、かなりの技術


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