福島県教育センター所報ふくしま「窓」 No.120(H09/1997.2) -005/042page

[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

を持ちながら理想を追い求めないのも残念だからである。
 そこで下記のような進め方を提案したい。
 @ 自評(次の2つについて行う)
  ・ 授業の組み立て方の意図とその結果
  ・ 授業過程の個々の部分についての反省
 A 教材論についての協議(実態をふまえて)
  ・ 教材の押さえ方は良いか。
  ・ 授業の組み立て方、その意図は、教材の本質に照らして良いか。(とくに、幾つかの例を示し、それらと比較しながら協議すること、必ずしも授業の結果にとらわれず、理論的に協議することが重要)
 B 授業技術上の問題についての協議
  ・ 授業過程にそって、成功の鍵、つまずきの原因等を協議する。
 C 授業について総合的にまとめる。

(2)校内研修は、もっと、学習を中心に

 最近、本屋さんに行くと、「先生の頃のように、今の先生方は、木を読まないですよ。」という話をよく聞く。本を読まないのは、子どもだけではないようである。最も、'80年代以降、教育論が、とみに少なくなっているので、若い教師たちが、「Howto」ものしか読まなくなっているのも仕方のないことなのかもしれないが。
 私は、最後の学校で、勤務時問後、毎週1時問30分ずつ学習会を開き、好きな者だけで小論文を読み合ったり、教材分析をしたりしていた。その時、一番感じたのは、読み方が、余りにも違うことである。討論し、解説して、初めて、著者の意図を理解している者が、余りにも多いことである。読み慣れていないということだろう。
 元NTT会長の進藤氏の著者に「習って覚えて真似して捨てる」いうのがあったが、私は、「学ぶ」ということは、正に、この本の題名そのものだと思うのである。最後に、捨てなければ、自分のものになっていないのである。
 共同研究という名のもとに、「研究ごっこ」を繰り返すだけでなく、もっと、皆で本を読む必要があるのではないか。
 もっとも、「何を読むか」、これを選ぶことが大変であることは確かだし、選び方によってその値打ちが決まるとも言える。
 最後の1年に、学習会を中止したとき、「なぜ、やめるんですか。」といわれ、「読む材料を選ぶゆとりがなくなったから。」と答えた。1つの材料を選ぶのには、少なくても、その5倍は読まなければ選べないといっても過言ではない。
 一人で選ぶのではなく、何人かで分担することも重要なことかもしれない。ともかく、現場人として、痛感したことは、「もっと、教師はさまざまなことを学ばなければならないのではないか。」ということである。校内研修の中心は研究ではなく、学習であるべきだと、私は言いたいのである。

4 最後に

 教師をやめて、「教師ほど、井の中の蛙、大海を知らずだ。」ということを、思い知らされたことはない。一応、何でも聞いてくれる児童生徒や保護者だけと付き合ううちに、世間知らずになってしまうのだろう。
 意識改革をしなければならないのは、教師自身であることに思いを馳せ、現職教育=校内研修=学習ということも、ぜひ、ご検討いただければと願い、拙稿を閉じたい。

《岩屋敬恒先生のプロフィール》
1935年 福島市に生まれる 県立福島高等学校卒業 福島大学学芸学部卒業 白河市立白河東部中学校教諭 1961年 福島大学教育学部附属小学校教諭 二本松市立安達太良小学校教諭 1971年 鹿児島市立伊集院小学校教諭 福島市立福島第三小学校教頭 福島県教育庁県北教育事務所管理主事 1981年 霊山町立石田小学校長 福島県教育庁総務課主任管理主事 同主幹 1987年 福島県教育庁県南教育事稿所長 1989年 同 県北教育事務所長 1991年 福島市立森合小学校長(1994年県小学校長会長) 1996年3月 退職 1996年10月より 現職


[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

掲載情報の著作権は情報提供者及び福島県教育センターに帰属します。