福島県教育センター所報ふくしま「窓」 No.123(H10/1998.2) -001/042page
◇巻頭言◇
たゆまぬ向学の徒であれ
教育センター学習指導部長 橋本祐一郎
「学びて時に之を習ふ、亦説(またよろこ)ばしからずや。明有り、遠方より来(きた)る、亦楽しからずや。」
「論語」胃頭の文章を持ち出すまでもなく、学問に習熟するということは、本来楽しいものである。また、学問を好む者は、自然と集まり来(きた)り、互いに切磋琢磨するようになる。学問への興味・関心は、何らかの幸運な出会いによってもたらされることが多い。人によってそれは両親であったり、教師であったり、先輩・友人であったりする。
私のような者が、何とか教員生活を続けてこられたのは、国語、特に古典が好きだったからだと思う。本格的に好きになるきっかけを与えてくださったのは、今は亡き高校時代の恩師であるI先生だった。高校に人学した時、田舎出身の私は、周囲の友達すべてが秀才ぞろいに見えて、すっかり萎縮し劣等感に'悩まされていた。そういう時に、たまたま私が書いた古典に関する課題作文を、I先生が誉めてくれ、その文章を皆の前で読み上げてくださったのである。今にして思えば他愛ない話だが、それを契機に古典研究への意欲が一層かきたてられ、I先生への尊敬の念が増し、ついにはI先生の出身大学に憧れて進学してしまったのである。かくも人の一生を左右する教師の仕事というものは、考えてみれば恐ろしい。
教育公務員特例法で「教育公務員は、その職責を遂行するために、絶えず研究と修養に努めなければならない。」(第19条)と謳っているのも、教員の職責の重さから見れば、けだし当然のことと言わねばなるまい。
ところで、教員の研修のその内容に関しては、昔から様々の人が様々のことを語っている。中でも、よく文献などで引き合いに出されるのが、昭和初期の教育者である藤森省吾の「三種の勉強の推奨」である。すなわち、「教員は生涯を通じてたゆまぬ向学の徒であれ。教員は、朝早く起きて哲学の書を読んで自己の修養に努め、昼間は教職の実践と研究に励み、夜は自分の専門の学問に努めよ。」というものである。このことは、昭和62年の臨教審答申の中の、「教員の研修は、(1) 現代人として必要な一般教養、(2) 教職に関する実践と専門的知識、(3) 教科に関する専門的知識、の三位一体の構造を持つ」という内容と相通ずるものを持っている。
昨年、教育職員養成審議会第一次答申が出され、「21世紀を担うために必要な力量を備えた教師像」が明確に示された。中でも、「得意分野を持ち、今日的な課題に適切に対応できる力量を持つ教員の養成」が強調されている。このような時代の進展の中で、県教育センターの役割は今後一層重要性を増すであろう。そのためにもまず研修業務に携わる私自身が、「三種の勉強」を怠ることなく、「たゆまぬ向学の徒」であらねばならぬと強く思うこの頃である。