福島県教育センター所報ふくしま「窓」 No.124(H10/1998.7) -009/042page
た例もけっこうありますので、子どもたちの持つやさしさが全くなくなった訳ではないと思います。
しかし、一方では、攻撃が執拗(よう)で集団化してトコトンやってくれる、ということもあります。いじめによる不登校の生徒がやっとの思いで再登校した日に、途中でいつもいじめられていたグループにあって、また、すごくダメージを与えられたといったケースがあって私もショックを受けたことがあります。それ以来、その子は中学校には行かない、と決めたということがありました。集団化すると相手を思う心がまったくないような行動になっていくんですね。藤田 優しさをもった子もたくさんいると思いますし、誠実で律儀な子どもがたくさんいるはずですが、集団の中ではできないということですね。星先生、こういった問題は大変難しいと思うのですが。
星 難しいですが、酒井先生のおっしゃった事を信じたいです。佐藤先生から伊深先生まで通して伺って感じたことは、価値観が多様化しているということですね。様々な価値観がある中で、学校が一つのきまりを作ってもうまくいかなくなった。髪の毛の問題にしても、金髪は個性だ、という親もいる。柔軟な対応をしていかないと難しいですね、その一方で、保護者も子どもも「決めてもらうと楽だ」という考え方もある。遠足のおにぎりは数は三つ、とか、水筒の中身とかを決めてもらいたい、自由は困る、という考えの親が多くなっている。この二つは全く逆方向のものですから、学校は困るわけです。
親は、お金があれば、自分さえよければ、といった考えや利益性、効率性を求めています。子どもたちのストレスの原因なども、「多様化」の方向と「一つに決めようとする側面」の二面性といったことにもあるということが言えるようです。藤田 私たち大人の、教師の問題でもあるということでしょうか。物的、人的な環境の変化ということでは、子どもたちの教室における人間関係が団地住まいのような人間関係、他人が集まっているような人間関係のような、希薄な関係になっているという問題があると思うのですが、この人間関係の問題をどう考えますか。
遠藤 確かに、子どもどうしの人間関係は希薄になっているように思います。割りきりかたが上手というか、あの事で遊ぶのはあの子、この事で遊ぶのは、つまり、遊びそのものが希薄になってしまっているように感じます。例えば、私の学校ではつり遊びをする子が多いのですが、つりには友達どうしで行くのですが、友達と行くというから遊ぶのかと思うと、つりをして、釣った魚は逃がし、終わったら自分は自分で帰ってしまう、といった、友達どうしの人間関係をあえて深めようとはしない姿が見えます。「我は我、人は人」という個人主義の考えが子どもたちの中にも芽生えつつあると思います。