福島県教育センター所報ふくしま「窓」 No.125(H10/1998.11) -003/042page
2.「豊かな心」とは、相手に対する「思いやリ・配慮」である。
前項において、「豊かな心を持つ人間」の具体像を示したが、この中から、「豊かな心」を絞り込めば、「豊かな心とは、思いやり・配慮である」ということができると思う。
では、「思いやり・配慮」とは何かと言えぱ、「相手の気持ちや願いを推量し、相手の気持ちに共感して、相手の欲するところを満たそうと努力する、温かな人間らしい心根である」と考える。
ところで、ここに言う「相手」とは、家族・友人・隣人等の人間のみを指すのではなく、動物や植物等、自然や環境をも包括するものである。
さて、現代社会においては、いじめ等、相手の気持ちや願いを無視した心ない仕打ちをする者も多く、また、心身障害者や高齢者に対する「思いやり・配慮」に欠ける言動は跡を絶たない。その問題の原因について考えさせられる幼稚園教諭の懺悔と言うべき小論文がある。その概略を示せぱ、次の通りである。私の、今までの幼稚園教育は間違っていた。いじめられた子供、いじめられ自殺を図った子供たちの手記や記録を読む中に、いじめた子供たちが、「辛いなら辛いと言えば、止めたのに何も言わなかったから、何でもないと思っていた」「止めろと言わないで自殺してしまうなんて……」と、いじめて辛い思いをさせた友達を責めたり、「いじめられていると、言ってくれれば、早く手を打てたし、守ってやることもできたのに、言わないために、こんな結果になって残念だ」といった教師の責任逃れと思われる言動に出会い、愕然とした。これらの人々の心ない言動に愕然としたばかりではなく、自分自身の姿を見せつけられる思いがしたからである。と言うのである。これは、一般社会においても、日常茶飯事のように遭遇する事象である。高圧的に強く出る人々、権利主張の強力な人々の主
幼稚園における自分自身の指導と同じではないかと、いても立ってもいられない気持ちであった。私は、日常、次のような指導をしていた。遊びに入れない子供、使いたい遊び道具を使わせてもらえない子供に対して、『皆と一緒に遊びたければ、一緒に遊ぼう。仲間に入れて』と言わなければ相手に分からないでしょう。『入れて』と言ってごらんと練習までさせ、その上ご丁寧に、先回りして、『○○ちゃんがいれてと言って来たら入れてあげてね』と伝えたりしていた。遊び道具についても、『貸してと言わなければ、貸し手もらえないわよ』と、『言わなければだめ。言わないあなたが意気地なし』と言わんばかりの指導をして、それでよしと思っていた。これは、いじめられ、自殺まで思いつめた子供を責め、『辛いから止めて!』『そんなことしないで!』と言わないあなたにも責任があるといっている人間たちと同じであった。
「思いやり・配慮」という言葉があるが、それは、相手の気持ちや願い、或いは、して欲しくないという不快感情を推量して、相手の欲するところを実現できるように援助する人間らしい温かな感情をいうのであると思う。そのことから考えれば、言わなければ分からないから言いなさい、という指導より、言いたくても言えない友達、一緒に遊びたいと思っている友達の気持ちになって、誘って上げようよという指導を優先すべきであったと反省した次第である。勿論、言うまでもなく、幼児期の「表現」、特に、言語表現能力の指導も大切であるが、そのことばかりに力が入って、人間らしい生き方の指導を、私は蔑ろにしていた。