福島県教育センター所報ふくしま「窓」 No.125(H10/1998.11) -004/042page
張は通り、集団を組めない声の小さな人々や高齢者・心身障害者の願いはなかなか実現しないというのも、「言わないのは、何とかなっているからだろう。言って来るまで放っておこう。」という社会体制にまで影響していると言っても過言ではなかろう。言って来なくても、相手の気持ちや願いを推量することができる人間らしさの満ち満ちた杜会を築きたいものである。
3.豊かさが生んだ傲慢
「思いやり・配慮」の「相手(対象)」には、動物や植物等自然環境が含まれているが、自然環境に対する「思いやり・配慮」は、人間侵先、物質文化専横の傲慢さによって軽視され、地球規模の危機を招いている。人間の飽くなき利潤追求の欲望は、無秩序な乱開発を助長し、「持続可能な開発」というキャッチフレーズは無視され、オゾン層の破壊等宇宙環境にまで影響が及んでいる。
また、医学界における遺伝子の組替えや、生体移植等の進歩は、疾病の予防や治療に飛躍的な効果をもたらしたものの、その研究の対象になる人間を含む動物等の生命に対する配慮ほ蔑ろにされている。人間の傲慢さは、最も大切にしなければならない「生命」に対する「思いやり・配慮」までも見失わせており、このまま改善されなければ、豊かな21世紀の社会は迎えられない。4.「人間らしさ」の追究
道徳教育において期待するものは、「人間としてのよさを身に付けて生活ができる人間を育成すること」である。単に「人間らしい」と言えば、動物との比較において「他の動物とは違う」というだけになってしまうし、日常遣われる言葉として、「あの人は人間らしくないね」と言う程度の意味にしか捉えていないことになる。更にまた、「人間らしさがあっていいじゃないか」と言えぱ、「時によっては、多少はめをはずすくらいが、面白くていいじゃないか」といった意味に解されてしまう。
道徳教育においては、道徳的価値とか、理想とか、人間としてのよりよい生き方を志向するものであるから、単なる「人間らしさ」ではなく、先に述べたように、「人間としてのよさを身に付けて、それを、日々の生活の中で実践できる人になって欲しい」ということを強調するのである。
では、「人間らしいよさ」とは何かと言えば、それは、「道徳的価値」である。「道徳的価値」とは、「人間らしく生きるためのめやす」と言うことができる。「道徳的価値」について中身を加えて説明すれば、例えぱ、人間関係で言えぱ、「友情」とか、「思いやり」「誠実」といった内容のものである。
子供たちが、人間として、よりよく生きるために、より高い道徳性を身に付け、豊かな人間性、豊かな心を持った人間に成長することを願って道徳教育の充実を図ることが「豊かな社会」を築く上に不可欠なのである。II.「豊かな心」は、「さリ気ない教育」の中で育まれる
1.「さり気ない教育」とは
「さり気ない教育」とは、特に構えず、日常の生活の中で、極く自然に振る舞い、極く自然に見せる両親や、教師、地域の大人たちの生活する姿そのものから教化・感化されることである。言うまでもなく、学校教育は、「意図的、計画的な営み」であるが、その間隙を埋める教育的働きが存在して、人間としての教育が生き