福島県教育センター所報ふくしま「窓」 No.126(H11/1999.2) -003/046page

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III 第二の大学改革
 第二の改革は、第2次世界大戦後、わが国のあらゆる分野に打ち寄せた疾風怒濤の戦後変革=「民主」改革のなかで、その一環として遂行された学制改革です。これを昭和の改革と呼べば、前述の新制大学の発足がこれであり、新生福島大学の開学もそれに連なります。
 この第二の改革の主な特徴は、おおむね次の相互に浸透しあう四本の柱に纏めることが出来ましょう。
1(丸囲み) 高等教育における、東京帝国大学を頂点とするピラミッド型の多分岐軌道の高等教育を編制替えし、すべての高等教育機関を新制大学に統括、横並びの、しかも単線の軌道に一元化・平準化するというドラスティックな改革がなされました(臨時的に短期大学を置くことを別として)。その結果、国立大学に即して言えば、一県に一校の総合ないし複合学部の中核大学が設けられ、場合によって、これに、その他の単科大学が配されるという構図が出来上がったのです。
2(丸囲み) 旧制大学は、「国家二須要ナル学術ノ理論及応用ヲ教授シ並其ノ蘊奥ヲ攻究スルコト」を目的とし、あわせて「人格ノ陶冶」と「国家思想ノ涵養」とに留意するよう求められていました(大学令、T.7)。これに対して、新制大学にあっては,「学術の中心として、広く知識を授けるとともに、深く専門の学芸を教授研究し、知的、道徳的及び応用的能力を展開させること」が、目的として謳われております(学校教育法、S.22)。一見してお判りのように、戦前の国家主義ないし国粋主義の色合いが完全に払拭され、そのかわり学術中心の理念が強く打ち出されたのです。
3(丸囲み) また、この学術中心という理念が、短絡的に視野の狭い専門家養成に結び付くことのないように、教養教育重視の課程編成が求められました。たしかに、旧学制でも、高等学校等には、いわゆる「教養主義」が見受けられます。しかし、それはあくまでエリート文化としての「教養」であって、将来のエスタブリッシュメントにとっての知的素養としての第二語学であり、「デカンショ」であったと言えます。これに対して、戦後の教養教育は、本来的には、人間形成が狙いであり、いわぱ市民文化としての「教養」に重きを置いたものです。これは、戦後の大学を特徴づける大きな目玉だと思います。
4(丸囲み) 戦後改革では、さらに教員養成を大学で行うことにした点も、着目すべきです。それは二重の観点からです。
 第一は、初等中等教育の教員が、戦前の「順良信愛威重ノ徳性ヲ涵養スルコト」を責務とする(師範教育令、M.30)各級師範学校においてではなく、学術の中心たる大学において養成されることになったことです。すなわち、教師に対し、徳性やプロとしての教え方の技法に加え、学問的力量を求めたことを意味します。戦前は、教える内容は国家が与え、教師としては世の師表としての人格と教えるノウハウがあれぱ良いとされていたのに対し、戦後は、教える中身も教師自身の学問的研鑽に委ねられねばならないとしたのです。第二は、初等中等教育、とくに中等教育に携わる教員には、教員養成学部卒業生だけでなく、一般学部卒業生にも門戸を開いたことです。この点は、上記第一の見地から派生する系論だろうと思います。
 とにもかくにも、新制大学は、こうした理念を胸に抱きつつ、焦土と瓦礫のなかからtake-offしたのです。

IV 第三の大学改革の歴史的位相
   −高等教育におけるマス段階・ユニヴァーサル段階の到来−
 あれから50年の歳月が過ぎました。そして前


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