福島県教育センター所報ふくしま「窓」 No.126(H11/1999.2) -005/046page
ドイツの大学を母斑として出来上がっています。第1次大戦後の改革も、そうしたドイツ型の高等教育の拡充に過ぎませんでした。また敗戦後、アメリカ占領軍の絶対的権力の主導で遂行された第二の改革も、日本の高等教育をドイツ型からアメリカ型に旋回させるまでには至りませんでした。そうした点では、第二の改革も、ある意味では、「量的」改革の域を出なかったとも言えます。
すなわち、各地に出来た新制大学は、大学であることの証として、東京大学をはじめとする旧制大学のミニチュアないしクローンとして自らを律したのです。ドイツ型大学では、研究室とゼミナール中心の編制で、教育といえば、極端に言うと、師の聲咳に接し、師の後ろ姿を見ながら秘伝を盗むといった徒弟制度まがいのものでした。新制大学になっても、教員は研究が主、教育は従で、それほど変わったとは思えないふしがありました。また、教養教育も、教養部が多くの場合、旧制高校の後身であったということもあり、エリート文化としての教養教育を脱却する努力に欠ける面がなかったとは言えません。
こうした研究重視・教育軽視の大学のあり様は、学術中心という新制大学の理念と決定的に矛盾するものではありませんでしたし、エリート段階の学生諸君は、旧態依然たる研究偏重・教育軽視の講義・教育にも付いて来てくれました。エリート段階の末期から教壇に立った私自身の反省をも込めて回想すれぱ、この段階の学生諸君は、面白くもない独りよがりな講義でも、それが難解であればあるほど、深遠な学識の披瀝と「美しく」誤解してくれ、あとは自ら専門書を読んで補ってくれたものです。福島大学の経済学部が東北大学の経済学部より学問研究の面で上位にあるとの下馬評が流布されたのも、この頃のことです。
ところが、マス段階に入り、ユニヴァーサル段階に近づくと、それでは済まなくなります。いまでは、四年制大学の学生数は、昭和20年代の高校生より多くなっているのです。とすれば、昔ながらの大学のままでは、大学教育は成り立たなくなるのは当たり前です。想うに、大学の教師だけは無免許運転です。教職単位を取っておりませんし、青年心理も学んでおりません。昨今、そんな状態で大衆化した学生諸君に相対することへの反省が出てまいりました。大学教育のあり方を研究するセンターが大学に付置されたり、教授法の開発(Faculty Development)の必要性が叫ぱれたりしているのも、そのためです。
エリート段階からマス段階への移行は、学生諸君の方が敏感に反応しました。この移行期に吹き荒れたのが、昭和40年代の大学紛争です。当時、学生諸君は、旧い大学や旧態依然たる講義にfremdなもの(自分とは関わりのない異質性)を感じ取り、一斉に異議申し立てを行ったのです。あの東大紛争の収拾に学生代表として一役買った町村氏が、大学審答申の最終段階で文部大臣として登場するのも、歴史の悪戯と申せます。この前後、角帽や学生服が姿を消して、私服が一般化したのも、エリート段階の終焉を象徴する出来事だという説もあります。
いま想うと、あの学生達による問題提起を、教師は、大学における意思形成のあり様や処分制度の改革の次元でのみとらえ、しかも、この点での改革すら紛争の炎が沈静化すると、未完のままに終わらせてしまいました。そして、教室における私語の氾濫等々の学生の変質を、近頃の学生はという世代論で片付け、大学進学層の地滑り的拡幅にともなう高等教育の異段階シフトと把握することが出来ませんでした。それも当然です。教師が、いままでは、研究者ではあっても教育者ではなかったからです。