福島県教育センター所報ふくしま「窓」 No.134(H13/2001.11)-002/036page
〈特別寄稿〉
可以為師矣
(以て師となすべし) 福島県立博物館館長 高 橋 富 雄1 『論語』からのメッセージ
これは「わたくしの小さな論語学」です。
『論語』は「人間の学としての教育学の古典」ですから、従ってこれは「わたくしの貧しい教育論の試み」でもあります。その『論語』を、その中の「温故知新」の章に限って問題にしようとするのですから、これはいわゆる「一隅を挙げて三隅を以て反する(一例だけあげて残りは類推する)」ことを期する類です。ひょっとして「一隅を守りて万方を遺(わす)る」ものになりかねません。その「温故知新」の章の中でも、さらにどなたもほとんど捨てて顧みることのなかった「以て師となすべし」というくだりを主題にしようというのですから、針小棒大の酷評を受けることになるかもしれません。
しかし、わたくしとしては、これでもって「論語読みの論語知らず」だったわが論語学習の反省とするつもりなのです。そしてわたくしと同類の方々に対しましても、もし「他山の石」 にでもしていただくことができればと、心ひそかに念じているところです。
いま教育の現場では、「狂瀾(きょうらん)を既倒(きとう)に廻(めぐ)らす」ような真剣な努力が続けられています。その先生方へは、これが「論語からのよきおとずれ」になっていてくれることを衷心から願うのです。
2 「温故知新」の章句
『論語』の「為政(いせい)篇」には、人口に膾炙(かいしゃ)した「温故知新」の名言が載っています。全文、以下の如くです。
子日、温故而知新、可以為師矣。
子日く、故(ふる)きを温(たず)ねて新しきを知る、以て師となすべし。本文わずかに十字、日本文に訓読しても僅僅二十字に収まる短文です。しかし、前段の五文字だけが余りに有名になり、さらに「温故知新」 と四字に成句化されて、ひとり盛名をほしいままにした結果として、後段五字はおいてきぼりの形になって、多くの人たちがそんなことばがついていたことすら、忘れてしまっているのです。ましてそれが一大事になろうなどとは、夢にも考えてきませんでした。偉い学者先生方も、「温故知新」それも「温」という字を「あたためる」とよむのが古訓だからよい、「たずねる」 は朱子たちの新訓だからよくないというような訓詁学(くんこ学。語釈)に熱中してしまって、それを後段と結んで考えることをしてこなかったのです。さらっと書き流している程度でした。
わたくしもその末流でしたから、大きなことは言えないのですが、今にして思えば、この前段主・後段従、結果的に前段「温故知新がすべて」という論語学が、この「為政篇」第十一章に託された「孔子教の教育へのメッセージ」を空文にしてしまったのです。
この十文字に託された「教師孔夫子の心」を的確にとらえていたのは朱子でした。ですがこの人を「新(いま)孔子」として崇拝してきた朱子学者たちでさえ、事、この章句に関する限り、全く古学派と同じように、温故知新一辺倒に終始してきたのです。
改めて先学の正論に聞くことにいたします。