福島県教育センター所報ふくしま「窓」 No.136(H14/2002.7)-001/036page

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【特別寄稿】

  「新しい学校づくり」をめざして 〜開かれた学校、今、学校に求められているもの〜

玄侑 宗久

「宗教」と宗教心

玄 侑  宗 久

オウム事件の記憶は、たぶんまだ生々しくあることだろう。東大や京大、筑波大など、現在の教育の成果を成功裏に身につけた青年たちばかりがぞろぞろぞろぞろオウム真理教に入っていったのである。まるでそうなるように教育していたと云ってもいいくらい、彼らは学業優秀だった。素直に先生の言うことを聞き、一所懸命に勉強した挙げ句のオウム入信だったのだ。そのことが現在、教育の現場でどんなふうに受けとめられているのか、私は些か気になる。

提供されたシステムのなかで、それを優秀にこなした人間が過ちを犯したというなら、普通はそのシステムそのものを疑ってみるべきだろう。いったい何が足りなくて、何が過剰だったのか、と。

あくまでも門外漢の戯言(ざれごと)として読んでくださっていいのだが、私が見るかぎり足りないものはハッキリしている。それは宗教である。

ただ宗教と云っても、意味のとりようで随分印象が変わる。宗教という言葉は、明治以後Religionの翻訳語として使われてからキリス卜教的−神教の影をおびる。その西欧的「宗教」の基準に従うと、当時の日本には遅れた宗教しかなかったことになっている。つまり、「一」なるものへの帰依を必須の条件と考える西欧型宗教が、「宗教」という言葉の意味する内容であり、日本にはそういう「宗教」は少ないのである。

西欧型宗教、つまりユダヤ教やキリスト教、イスラム教などは互いに違った「一」を奉じて相手を認めないから、これは学校という公の場では教えるべきではないだろう、と理屈は進む。政治も教育も、この「宗教」とは分離すべきだ、となるのも自然なことだろう。だから遅れているとはいえ日本の神道や仏教も当然そうすべきだと考えたようだが、ここに大きな間違いがあった。

神道は八百万の神々を祀る。仏教、ことに日本の仏教も、様々な宗派が並列して存在している。しかも歴史上、キリスト教がカソリックという正統を定めたような、仏教の正統というのは存在しなかった。むろん多少の贔屓はあった。
たとえば足利幕府が時宗や臨済宗を重く見たり、あるいは江戸幕府が浄土宗を優遇したというような。しかし正統を定めずに並列させてしまう、というのが、おそらく日本人の習性なのだろう。その習性はもしかすると古代からのアニミズム的神道の伝統によって涵養されたのかもしれない。それは換言すれば、「多」のなかに「一」を見ようという思考だろう。


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