福島県教育センター所報ふくしま「窓」 No.136(H14/2002.7)-002/036page

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いや、あるいはそれも近代的「一」に犯された考えかもしれない。もしかすると我々は、秩序なき混沌としての「多」を、そのままに受け容れることのできる民族なのかもしれない。

宗教以外の例のほうが解りやすいだろうか?たとえば中国で最古の固形茶、宋の抹茶、明の煎茶は決して併存はしない。それは前の王朝を次の王朝が倒すとき、何もかも諸共に壊してしまうからだが、日本では固形茶はないにしても抹茶と煎茶は併存するのである。ウーロン茶まである。日本という国は、文化の貯蔵庫だと云ってもいい。

私が言いたいのは、こうした「多」を奉ずる日本的宗教は厳密な意味での「宗教」ではないから、もっと学校で触れるべきだ、ということである。

もちろん私とて「教育基本法」を知らないわけじゃない。第9条第2項では「国及び地方公共団体が設置する学校は、特定の宗教教育その他宗教的活動をしてはならない」と謳う。だから特定の宗教への信仰を促そうなどとは考えてもいない。しかし日本の仏教や神道は、けっして自らを「一」として他を否定するような構造にはなっていないから、たとえば一つの宗派の和尚が教室で話したとしても、厳密には特定の「宗教」教育にはならないはずなのである。むろん神主さんや他の仏教宗派の方も呼べばなお結構だが、おそらくそれでも非難する人はいるだろう。

まずは非難する人々をよく観察してほしい。彼らは自らの「一」以外を否定する「進歩」した「宗教」の信者ではないだろうか?あるいはそうでなくとも、少なくとも西欧型「宗教」と日本の宗教の違いについて、あまりに無知だと言うしかない。憲法や教育基本法で謳われている「宗教」とは、「一」へ進歩した西欧型「宗教」であるという理解が、今こそ必要ではないだろうか?同じ第9条の1項では、「宗教に関する寛容の態度及び宗教の社会生活上における地位は、教育上これを尊重しなければならない」と規定されているのである。禁止条項ばかり気にするより、実はこのことをどうして実現するかが工夫されなくてはならない。それを培うモデルケースが、じつはモザイク構造の日本の宗教なのである。

1月に放映された「課外授業 ようこそ先輩」に出演し、私は僧侶・作家として6年生に授業した。私は臨済宗の僧侶であるから、そのことじたい「教育基本法」に抵触する可能性がある。そのせいかどうか、授業の日に欠席した子供が一人いた。その子の両親は、私も通ったことのある新興「宗教」の信者だった。一応遠方に住むおじいちゃんが危篤だ、という理由にはなっていたが、真偽は判らない。ただ彼らの信奉する「宗教」が、明らかに明確な「一」を奉じていることを私は憶いだしていた。

また、その番組が単行本になる話がもちあがり、校正にはいってからだったが、HKから「おみくじ」の部分を削除できないか、と言ってきた。私は「おみくじ」が特定の「宗教」ではなく、神社にもお寺にも置いてある風俗なのだと話し、そういう説明を加えることでなんと


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