福島県教育センター所報ふくしま「窓」 No.136(H14/2002.7)-004/036page
日本語』という本が売れているようだが、それも反復暗唱というお経さながらの合理を超えた世界への入りロである。また宗教色を取り去った瞑想や呼吸法なども学校で有効ではないだろうか?
要は学校という場での、合理性への過剰な信仰が問題にされるべきだろう。なにごとも言葉で理解し、合理的解釈が可能である、という信仰。それに飽き足りない青年たちが、世界をもっと包括的に捉えようとした結果がオウムではなかっただろうか?包括的に、という意味は、言葉の届かない不可思議な世界を認めるということだ。
最初の問いかけに戻れば、今の学校現場の過不足は、過剰な合理性への信仰と、宗教の欠如、ということになる。宗教でまずければ宗教心と云ってもいい。
私にとって宗教心とは、自他のなかに眠っている無限の可能性への信頼である。本来我々のなかにあるはずの智慧や慈悲心を、仏教では観音さまで表すけれど、別にそうしたレトリックを用いるまでもない。近頃進んできた遺伝子の研究でも、我々の遺伝子の95%は眠っているというのである。我々は様々なチャレンジによってその眠っている部分を覚醒させていくわけだが、いわばそれこそが生きていく楽しみというものだろう。教育の意味も、本来そこにあるのだと思う。
宗教とは意識せず、じつは学校現場でも宗教的な思考や習慣が教えられている。それを哲学と呼んだり道徳と呼ぶのは自由だが、食事作法や立ち居振る舞いはどうだろうか?
世界に宗教を起源としない食事作法は存在しない。あるいは日本人はどう坐ってどう立ち、どう歩いてどう眠るのか。こうしたことに関して仏教や神道が蓄積しているものは膨大である。
なにも宣伝がしたいわけじゃない。ただただ、勿体ないと思うのである。最近は総合学習などでお寺での研修も頼まれたりするが、今の先生方はほぽ全員、座布団のまえうしろを認識していない。正座という奥深い作法についてもご存じない。まして歩き方など、どこでも習ったことがないから当然なのだが、まったく無意識である。
国際的であるためにも、日本を教えてほしいのである。明治に始まった学制のなかで日本の音楽を教えなくなり、さらには戦後、日本文化の温床である日本の宗教が教育現場からオミットされた。このことの損失を、冷静に計ってほしいのだ。オウムヘの流入は、氷山の一角にすぎないと思う。
分かちがたく癒着した日本の文化と宗教を無理に引き離すために、例えば行政は「告別式」という言葉を考え出した。学校でも道徳や哲学という言葉で宗教的遺産を語ろうとしている。どうしてもこの態度を続けるつもりなら、「いただきます」「ごちそうさま」という仏教の言葉を使わず、それに代わるものを考えだしてからにしてほしい。
そう言ってしまえば喧嘩だが、そうではなく、私はそろそろ和解しましょうよ、と言いたいのだ。そのためには仏教や神道が「宗教」ではない、と言われてもいい。