福島県教育センター所報ふくしま「窓」 No.136(H14/2002.7)-003/036page
か諒解をとりつけたが、プロデューサー自身もじつはちゃんと承知しているのである。
しかし彼らは視聴者からの判断が怖い。宗教と名がつけば一律に排除しようという人々からの、電話とそれによる脅しが怖いのである。彼らは「特定の宗教を勧めた」り「差別を助長した」り、という理由で批判できる番組を虎視眈々と待っており、それを批判しては自分たちのための番組枠を要求するのである。
いきおい、公共の電波を担う人々は憶病になる。
学校という公共の施設も、同様ではないだろうか?
しかし先程も書いたように、日本の伝統的宗教は「多」をそのままに受容する。そうした寛容さをもとより具えているから、様々な「一」を奉じる「宗教」さえ、批判されなければ批判しないだろう。「一」以外は批判する、という態度をとらなければ、この国では受容されるのだと思う。
どこの国でも、その国の国民であることの自覚を促す教育が行われているわけだが、日本の日本らしさは、そうした寛容さにこそあると思えるし、そのためにもできるかぎり多くの宗教に、子供たちには触れてほしいと思う。今や「国際化」とか「国際感覚」というのも学校教育で謳われているが、真の国際感覚はおそらく世界の宗教に対する基礎的理解が前提になる。もちろん授業時間に限りがあり、しかも週休2日となれば尚更そんな時間はないだろう。そうであれば尚更、少なくとも世界の他の宗教に対する寛容さだけは身につけてもらわないと困る。そのためにも、仏教や神道は恰好の教材なのである。
オウムヘ走った人々が惑溺されたその魅力は、おそらく宗教のもつ肉体性だろうと思う。つまり自分の肉体と向き合い、ある限界を超えようとする行為が、宗教には必ずある。そこで人は、ある種の恍惚へと導かれるのである。その状態が「解脱」と言われたり「祓い清められた」状態とされたり「他力」の風が吹いたと解釈されたりする。言葉は違っても、いずれも論理や言葉が届かない状態のことである。そうした体験が少年時代にあれば、彼らもあれほどあっさりオウムの虜にはならなかったのではないかと思う。オウムにはじつに周到なシステムがあった。五体投地・坐禅・唱え文句・さらに水中クンバカなど、二重三重に胱惚へと導く方法が用意されていたのである。
自分の体が悦惚を生むということを知らなかった青年たちが、いわばそのことに目覚めて抜けだせなくなったのがオウムだったのではないだろうか?
昔は長時間廊下に正座させられたり、あるいはバケツを持ってお昼まで立たされたり、ある種の肉体的限界に挑むようなことも、学校では行われた。だからある程度論理を超えた世界への免疫があった。
むろんそんな原始的な方法を復活せよと言うのではない。もっと優れた方法を、日本の宗教はたくさん蓄積しているのである。呼吸法、坐禅、念仏、お題目。近頃『声に出して読みたい