わたしたちのまちほばら-045/051page
▲曲がりくねった水路 土地のようすに合わせて、水路が大きく曲がっているところもあります。(梁川町細谷)
▲整備された水路 三面をコンクリートにし、まっすぐに通されている水路です。
▲水量調節 砂子堰はたいへんこう配かゆるいので、水量を調節し、流れがとどこおらないようにしています。
用水に困っていた人々は、阿武隈川の水を利用しようとしましたがうまく行きませんでした。その後、広瀬川から水を引くことを計画し、今から約390年前の1604年〔慶長9年〕に砂子堰が完成しました。これは、東根郷の世話人、堀江与五右衛門(梁川)渡辺新左衛門(保原)の苦心と土地の人々のたいへんな協力によってできたのです。霊山町泉原地内で取水し、大門、新田、細谷(梁川町)金原田、柱田を通り、上保原までの延長16kmにおよぶ水路です。
むずかしい工事なので、たいへん苦労しましたが、人々は決心をかえず、苦心のすえこれをなしとげました。水を通すのに、山のふもとをうまく利用し、いったん川下の方に出ながら、さらに川上の方に水をまわす工夫をしたので、「伊達の逆水」ともよばれました。
現在まで、この地方の田に、大事な水として使われてきましたが、広瀬川の水量が少ないので、水は不足がちでした。それで、取水口の改良や水路の修理をしたり、苦心して、片貝山トンネル(三代舟山庄蔵らが掘る)をつくりました。また、「時水」といって、田に水を使う時の量と時間を決めて水を引くことにしました。農民は、少しでも多く自分の田に水を引こうと「夜水引き」をした。、「水番」をおいたり、ときには、「水けんか」をしたりしました。これは、水路がコンクリートに改修されて水もれがなくなったり、東根堰ができたりするまでつづきました。
人々は、この水不足をなくすため、阿武隈川の水をせき止めて使おうとしました。しかし、なかなか工事がうまくいかず失敗をくりかえしていました。
1914年(大正3年)、伊達町箱崎地内の阿武隈川から、電力ポンプによって水をあげその水を上保原の大柳を通って、砂子堰の水路にれんらくすることに成功しました。その後約30年間にわたり、砂子堰や用水池の水不足をおぎなったのです。しかし、電力ポンプで水をあげることは、電気料金がかさむことや、機械に故障がおきやすいことなどからあまりよい方法ではありませんでした。
それで、1935年(昭和10年)福島市渡利の信夫発電所ダムから、しぜんに水を流しこむ方法で、阿武隈川の水を取り入れる工事がはじめられました。この用水路が東根堰なのです。
●東根堰
▲福島市小倉寺ふ近
▲文知摺ふ近トンネル
▲文知摺ふ近の水路
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