長沼町の伝説 -117/224page

[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

そこで御姿(本尊)を新田屋敷の觀音堂に移した。觀音堂にある正觀音立像がそれで、底部に、「桙衝村日 照田本尊明和三年、正觀音菩薩大仏師大原右京作之」と墨書きされている。

 御堂がなくなってから、松の大木を切ることになった。大きな木で、一人や二人では切れないので近 郷の木挽が集まった。七人の木挽が同時に斧を振って切ったが、隣の人にはさわらなかったといわれる。

 昭和の始めまでこの根の一部があったという。この台地の下の一部を今でも堂の下と呼んでいる。

        (話者 円谷嘉一・保志源一)

觀喜寺 《小中》

 小中志茂に桙衝長楽寺の末寺、神護山醫王院觀喜寺があった。この寺は、元和二年、長楽寺九世、宥 證法師が閑居の後、開基した。

 客殿庫裡ともに一宇、東西八間南北四間三尺、本尊は薬師如来、長さ一尺、本仏座像厨子入虚空蔵は 九尺四方、本尊長さ五寸、本仏座像厨子人、作者不明である。

 縁日は六月十二日で、明治の廃仏によって廃寺となった。学制発布後に、小中小学校となって、近村 から学生が集まった。

 明治四十二年の台風で倒壊したので、取り壊して、土地は村民に売却した。寺跡は杉山となり、木戸 の人口に、石仏が二基昔の面影を残している。

        (「白河風土記」「桙衝村誌考」より)


[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

掲載情報の著作権は長沼町教育委員会に帰属します。
長沼町教育委員会の許諾を受けて福島県教育委員会が加工・掲載しています。