社会科学習資料 第3・4学年 わたしたちの村 ひがし - 060/106page

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※1里(り)=36町(ちょう)(3.9273km)1町=60間(けん)(109m)1間=6尺(しゃく)(1.818m)

 田島からかぶ内(うち)にくると右へ釜子へ行く道があり、この分岐点(ぶんきてん)に木でできた道しるべが戦後(せんご)しばらくの間ありましたが、今はありません。

道しるべ またかりしきざかの佐川周平(さがわしゅうへい)さんの庭(にわ)に、高さ70cm、まわりが80cmの四角(しかく)の石の道しるべがあります。年月(ねんげつ)がたって、あたまはややかどがとれていますが、江戸(えど)時代、明治(めいじ)のはじめごろまで、旅人(たひびと)の便(べん)をはかったことでしょう。

 「東ハあさ川遍(へ)、西ハ白川遍(へ)、南はたなくら遍(へ)、北ハ屋(や)ぶき遍(べ)」ときざんであります。

 今は道路標(どうろひょう)しきでかりしきざかには、矢吹(やぶき)へ10km、石川へ11km、たなくらへ12km、あさ川へ8km、白河へ13kmとなっています。


C 交通のうつりかわり

 大むかし釜子地方は松田(まつだ)といって、東山道(とうさんどう)の駅(えき)で馬がおかれていました。江戸(えど)時代のころは道路(どうろ)のせいげんがあって、いばらぎ街道(かいどう)は道はば3間(やく5m)ときめられていたようです。しかしこれも宿場(しゅくば)のあるところで、大ぶぶんの道路は道はばが2間(やく3.6m)だったと考えられます。だからそのころの交通は人や馬やかごによるあるく交通だったわけです。

 釜子小前の釜子金山線は道路(どうろ)はばがやく5m、役場前の矢吹たなくら線はやく7m、かりしき坂ちかくの白河石川線はやく8mあります。車の往来(おうらい)が多くなった今では、道路のはばが広くなるのもなりゆきといえましょう。

 人力車(じんりきしゃ)がかごにかわってでてきたのは明治のころですが、これは西洋馬車(せいようばしゃ)にヒントをえて日本人が考えだしたものです。白河駅の前にも


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