社会科学習資料 第3・4学年 わたしたちの村 ひがし - 061/106page
客(きゃく)まちの人力車(じんりきしゃ)が昭和(しょうわ)のはじめごろまで見られました。
釜子にも人力引(じんりきひ)きがいて、急用(きゅうよう)のお客(きゃく)さんを運(はこ)ぶのに3人引きといって、つな引き、かじとり、後(あと)おしで走ったこともあったそうです。
大正のころになってのり合馬車(あいばしゃ)が走るようになり、人力車(じんりきしゃ)はだんだんすがたをけしていきました。
乗合馬車(のりあいばしゃ)は白河−石川間(かん)と白河−たなくら間を大正7年(1918)から12年まで走りました。どちらも1日1往復(おうふく)でていりゅう所などはなく、どこでもお客(きゃく)さんをのせました。
この乗合馬車(のりあいばしゃ)には1頭立(とうだ)てと2頭立てがあり、1頭立てには6人、2頭立てには12人のせることができました。ぎょ者がぶらくに入ると「とうていとうてい」とラッパを、ふきならして通(とお)りすぎたので「とて馬車」とよばれていました。大黒町(だいこくまち)の安沢(あんざわ)そうたろうさんは馬車2台をおいて、釜子−白河間を走らせていました。
そのころの大黒町を通るいばらぎ街道(かいどう)は、米(こめ)や炭(すみ)、材木(ざいもく)などをつんだ荷馬車(にばしゃ)の往来(おうらい)も多かったようです。
大正(たいしょう)の終(お)わりごろからは自動車、昭和になってからは乗合自動(のりあいじどう)車も走るようになって、これらが人力車や乗合馬車にかわる交通きかんとなったのです。
また自転車(じてんしゃ)は釜子や小野田などで明治38年(1905)ころはじめて走るのが見られました。しかしそれも数(かぞ)えるくらいの人で、めずらしがられたそうです。自転車は今のように家のにわなどにはおかないで、ろうかやおかってなどにあげておいたそうです。