塙町の文化財 -059/105page
記録されており、この遺構の建立はそれ以後のことに属する。おそらく一八世紀半ば頃のものであろうが、大きな屋根はあるいは前身建物の名残りであろうか。
七、旧勧行院観音堂(常世観音堂)
所在 大字常世中野字舟木原
建立 天保九年(一八三八)
方三間(間口六・四三メートル、奥行六・四二メートル)、宝形造り、茅葺き。町の東方を流れる川上川北部に広がる常世の田園地帯の一角に建ち、常世観音堂の通称がある仏堂である。
元来は現在地の西方に三〇〇メートルほど距てた田地のなかに建っていたものを、大正九年耕地整理にあたって現在地に移したと伝えている。なお、旧地に存した親寺の勧行院は、明治初年の廃寺によって消滅し、由緒書その他の記録や史料も残されていない。
堂の軸部外廻りはすべて円柱とし、正面三間のうち中央の間は格子戸の引込み、両脇の間は摺上げ板戸で開放するほかは、三方とも横板壁で閉じられる。軒は一重の疎垂木、粽付きの円柱上には台輪を回らし、隅は出組とするが中備は省略される。その一方、内陣境の中桁の両端にまで斗や木鼻を略さない入念さも併存している。
内部は前方二間通りを拭板敷き・格天井の外陣、奥一間通りは結界で距てられた竿縁天井の内陣とする。さらに内陣奥半間通りには約○・八メートル高の祭壇を造作し、その中央にあたる来迎柱間には箱形厨子を安置して如意輸観音を祀る。外陣天井の格間には彩色画を描くのをはじめ、内陣境の欄間全体に施した陽刻など、堂内は全般に派手である。
この遺構は前述の事情により建立の記録ももたないが、天保八年(一八三七)の火災で寺院ともども焼失し、翌九年に再建したという口伝は残っている。
なお、外陣内壁に隙間なく書かれた古い落書きにも年号の記入は見えていないが、大正九年の移築において旧材がもとの位置に使用されたことは証明されている。たぶん引家であったと察しられるが、身舎の円柱相瓦間の地覆などはその際の挿入であり、筋違はもちろんのちの補強取付け、また擬宝珠付き高欄を付した切目縁は近年の改造である。