北会津村誌 -000-15/534pag
った名門の牧原源一郎氏も、その統制には苦心されていたようである。荒館村の場合は、それでも長い準備期間があったようなものである。31年北会津村の発足に際して、氏は推されてその初代村長についたが、役場の移転などの問題で、氏を窮地におちいらせたのは残念でならない。この複雑な町村合併に、必ずついて廻る難問に、真向から立ち向かう人々の、尊い犠牲のようにさえ思われる。
不宵私は高邁な智徳は勿論、政治手腕においても、遥かに勝れた大先輩のあとをうけて、この村長の椅子についたが、学校の統合・移転などの難渋な問題に、ただちに直面しなければならなかった。その中でも、最も私を苦悩させたのは、この村の本質からくる洪水の災害防禦であった。昭和36年9月27日の宮川の氾濫では、村民の苦労して実らせた稲田が、その収穫期に、一朝にして泥土と化し、郡山自衛隊の献身的な援助を受けて、漸く救済する始末であった。このための宮川河川改修費は実に4億5千万円に達している。ようやく1期を果し、いままた2期を終わろうとして、いかにしてこの苦境をきりぬけてきたかを思うとき、実に感無量なるものがある。この苦労は、北会津村8千名近い人の、生活建設の生みの悩みでもあると思っている。私は鋭意、平和豊かな、災害のない、健康な村をつくりたいと願って、昭和36年九州別府での治水全国大会には、声を大きくしてその実情を訴えてきたほどである。
ここに新たな村が発足して10ヵ年、これが丁度明治百年にも当るので、このへんで、古く語り伝えてきた村の成立ちなり、特に昭和36年の計画以来、今まさに成ろうとしている農業改善事業による、大地