北会津村誌 -000-18/534pag
はじめに
北会津村の南縁を、旧鶴沼川が、ほぼ村を東南から西北に対角線状に流れていたことは、河跡を追うもわかるし、記録にもみえている。はじめ濁川にあわさって、つぎに宮川に合流している。河筋は幾度も移り、現在の大川が、近年の、ほぼその固定の姿かと思う。即ち北会津村は、旧鶴沼川・濁川・宮川の複合扇状地の中州の上にある。
北会津村を述べる限り、一貫して、この特性を頭におかなければならないと思った。会津盆地の開発は山麓が早い。中央の後れた原因は氾濫原であるからである。扇状地末端には湧水地帯がある。この特質もよく備えている。しかも思いついたように、降雨が数日にわたると、たちまち両側からの洪水に悩まされる。砂礫の中州の開拓、洪水との戦いで生きてきた村である。
河川改修の実があがり、農業構造改善で、この北会津村は大いに改まろうとしているが、本質的には、洪水の置いていった堆積土壌を工作して生活することに変りはない。
北会津村を述べるに当って困ることは、やはり発達した核心となるものがないことである。扇状地は末端の湧水地帯から開発されて、漸次扇面に及ぶが、その様式はここでもよく当てはまる。北の田村山に、小さいながら前方後円墳のあることは、一つの手がかりであるが、もう中世には下荒井・中荒井・下小松・