北会津村誌 -000-19/534pag
上荒井の方に、政治的中心が移っている。しかもこの北会津村の中洲には、地方都市的な芽は生えないでしまった。これは会津盆地そのものの大きさ、即ち東西の幅がほぼ8キロくらいしかないので、若松や高田・坂下などの、城下町や、谷口の市場町に、商圏を占められるためである。これが古くから、俗にさえんばなどといわれて、城下町などに対する穀物・野菜の補給で甘んじて生活してきた所以である。
寛文5年と文化6年の新旧の会津風土記を台帳のようにして調べたが、決して開発は新しいとも思えないのに、山麓の若松とか、坂下・新鶴・高田に残るような、偉観を誇るような文化財はみつけられないでしまった。調べるほど、やはり中州の河原地、湿地の開発が大変であったろうとの、村づくりの先駆者に頭のさがる思いがした。町村合併をくりかえしてきただけに、為政者も、村人も、如何に苦労が多かったろうかと思われる。これはまた、核心的なものを持たない地域開発の宿命的なものでもある。
せっかく、こうして骨を折って調べるのであるから、やはり、何か私が学問的にも解明して、村人へも贈り物にしたいと心がけていた。 一つは旧中荒井村分にある、二日町と下米塚新田の間にある四つ壇であるが、風土記にも、慶長の頃逆修念仏のために築いたとし、現在ほぼ古墳とも断定しかねないと聞いていたが、旧中荒井組と橋爪組、中荒井村、二日町と下米塚新田の境界壇として構築したものであることが、古文書の裏付けもあってわかった。間違いはなかろうと思う。
もう一つ、北会津村を直接解いたことではないか知れないが、高田の伊佐須美神社を産土神としている