北会津村誌 -000-20/534pag
から関係ないことはない。やはり私にも郷土伝説固執などの観念がつきまとうているものか、終戦後引揚げてきて、磐梯明神が山の神信仰につながって、会津一円より仰がれ、春にさきがけて山麓の一の戸、即ち本寺に下り、やがて恵日寺が隆盛になって引きつがれたが、これが田の神信仰につながるものであることは、柳田国男の民俗学を学んでおいたので解いた。それなのにどうして気付かなかったかと、情けなくなる思いであるが、北会津村誌を書きながら、御神楽嶽より博士山・明神岳と社地をかえて、やがて高田の高天原に祭られたのが伊佐須美神社であるとは、あまりに古記録に書き過ぎていたため、誰れも疑をはさまなかった。これは、私の民俗学上の問題として解いてみると、社地が移って、博士山頂に、そのもと屋敷があるのではなくて、それ自身が山岳信仰の山の神の霊地である。春になって山の神は田の神になって麓に下り、農を見護られる。これがわが北会津村などでも産土神とする伊佐須美の神であろう。これを裏付けるさいばらや田植祭のさなぶり、即ちさは田の神であり、田植を終って山にひとまずのぼられることである。こう解けば、神官や、高田の人々は、ちょっとは納得しにくいか知れないが、その方が筋が通り、われわれの仰ぐ郷土の農の神となる。
「村の生活」の編に伝説や昔話を相当ながながとつけたが、私は、「古事記」や「日本書紀」の会津版をよむ思いで書いた。やはり日本文化の本流が底に流れてきているので、大切にしたいと思ったからである。毬つき歌までつけたが、郷愁はまたつぎの村をつくる基礎になり、自分の姿を見返す資となるからである。