北会津村誌 -006/534pag
後の国に渡り、阿賀野川をさかのぼって会津に達する方が、距離の上からも近い。阿賀野川の水運は塩川町まで通じていたが、それより上流は荒れ川で一部、底の浅い河船もあったが、旧城下町の会津若松市には達しなかった。近世からは江戸、今の東京都が日本というより、近年は東洋の文化的中心になり、東京との交通の便、不便が、開発度・文化度を示すかのようにさえ考えられるようになっている。
その点から、東北本線より郡山で磐西線の支線にはいり、しかも猪苗代湖畔の標高500メートルの高度を越える交通の難渋さは、会津文化の開発に大きなブレーキとならざるを得ない。
北会津村は大川と鶴沼川にはさまれた中州で、ほぼ盆地の中央に位置する。盆地開発の過程は、山麓より中央に及ぶのが多く、会津盆地もその例にもれない。旧城下町の近郊ともいえる距離にあり、古くよりさえんばとして城下町への主要野菜供給地としての地位を確保していたが、会津高田町・会津坂下町などの山麓の主要都市とも、或る程度の距離にある。現在は蟹川橋・高田橋共に立派な鉄筋の橋がかかり、自動車の交通も繁くなり、会