北会津村誌 -007/534pag
津線は村の南部を横断し、会津本郷駅は当村地内にあるようになったが、この開発は全く近年のことである。 まだ五十歳をちょっと上まわった人さえ、蟹川・真渡・二日町の板橋の記憶をもっている。高田橋はこの辺の川幅があまり、まだ大きくなく、会津高田町・会津本郷町の地方都市との交通があって、早くより車を渡せるほどの木橋であったが、氾濫のはげしい荒れ川の大川は、二日町辺で川幅は700メートル、蟹川辺で550メートルにも達する最も幅広いものになり、その大部分が荒れ川式の河原で、流路変遷の常ない幾筋かの流れに、杭を打ち、板を並べて、ようやく荷車を通すほどのものがあったに過ぎない。それが1年何度かの洪水には、たちどころに流失して、その都度、船の渡し場にもどるという有様であった。西辺の鶴沼川もやや小規模ながら同様で、北会津村は、その点からは、全く、大川と鶴沼川の中州、輪中ともいうような形を占めて、この東西両側の渡橋の便が、村の開発に直接影響してきたともいい得る。 ようやく、多年の念願であった主要な橋だけはコンクリートに改められ、中州に渡る主要交通路をなしている。
4、河原と泉の地名
北会津村という名称は、つい先の昭和31年の町村合併が行なわれた時にできている。旧荒井、館の内の合併村と、旧川南村の大半が合してできたのである。北会津という会津1市5郡の一つであった郡名が、会津若松市の大きな市町村合併により、とり残された幾つかの村、これは大川と鶴沼川の複合扇状地という自然的なものも含んでいて、決して偶然とはいえない基礎的なものを含んでいるのではあるが、郡名を一つの村に冠した珍しい例でもある。
この北会津郡という名称も、実は古いものではなく、明治12年(1879)郡区制布告のあったさい、それ