北会津村誌 -008/534pag
まで、南会津郡、城下町をも含めて、広く会津郡、時には大会津郡などとも呼ばれていたものからの分離である会津盆地の南半、中央部を占めながら、北会津村と呼ぷようになった経過である。
しかし、旧鶴沼川、今の大川の岩崎山付近より盆地を対角線に流れて、佐布川付近で宮川に合して、盆地西辺に大氾濫原をつくって南流した歴史とその痕跡は永く、藩制時代は高田組中荒井村、橋詰村といい、延宝までの(1673〜1680)古記録にはこれらの村は大沼郡に含まれていた。
詳細な政治的区画の変遷による名称の移り変りは後述するが、ここで強く指摘される地名の特色は、扇状地の河川の推移、河原・谷地・湧水などに関する地名の非常に多いこと、むしろ殆どが、その地形成因とその開発を物語る地名ともみられることである。
旧川南村は鶴沼川の対角線状に流れた南の地域を呼んだものであろうし、荒井村は湧水地名で、泉のほとりに村ができ名付けられ、その数がふえると、下荒井・中荒井・上荒井とも分けて呼ばなくてはならなくなったのであろう。
泉そのものでできた地名には和泉があり、これも幾つかにふえて、上和泉・中和泉・下和泉と呼ばれるようになり、現在は鶴沼川を隔てて大沼郡新鶴村に含まれる和泉新田なども、鶴沼川がかってこの村の西を流れ、和泉村の地先を元和9年(1623)に開墾し、中荒井村に属していたことがはっきりしている。
現在もいくつか古くよりの大きな清水が、白山清水・景勝清水などの名で残っている。耕地が整理され、井戸が各戸に容易に掘られるようになると、自然の湧水に依存することもなくなり、大湧水は埋めつくすことが容易でないが、多くは埋立てられ、耕地・屋敷・道路などの下に埋没されて姿を消すに至っている。寛文5年(1665)の中荒井村の書上げ帳には、137の河原・谷地・清水などがのっている。これを現在原地に当ってみると、