北会津村誌 -012/534pag

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ら、この程度の大きさの湖と推定して、大きな誤りはなかろうと思われる。猪苗代湖東北岸長瀬川下流の小地域にもドッコンスイの自噴地域があるので、同じように解してよいと思う。いたずらに現在の猪苗代盆地全域を旧猪苗代湖の大きさとみるのは、会津盆地もそうであるように、必ずしも当っていないであろう。

 それならば、どうしてこの湖の水を高い越後山脈を越えて排水を終ったかということになるが、嘗て会津盆地全域に、満々と水をたたえていて、その最高水位が越後山脈を横ぎる最低位の谷を見つけあった時、排水がはじまり、その後の侵蝕によって、現在の横谷阿賀野川がつくられたと考えられたことには、相当の無理な憶測のあることがわかった。むしろこの程度の湖が早くできていて、その後の第三紀の造山運動によって越後山脈が、静かに隆起してゆき、これに抵抗して、先行性の流路を維持しようとして侵蝕をつづけ、現在のような横谷が現れたものと考える方が無理がないようである。即ち小さい湖の水を排する阿賀野川の川筋が古くからあって、越後山脈がその後隆起してできていったが、それが徐々な隆起で、河谷の侵蝕の方が盛んに進んだから、川筋を古くから変えないで流れつづけていると考えてみれば、現在の湖盆地なり、横谷を説明するのに無理がないというわけである。

 しかし、宇内・山崎問の阿賀川の排水口は、決して現在の峡谷一本が古くから動かなかったものではなく、地理学などでははめ入れ蛇行と呼んでいるが、幅12キロ内外のところを蛇行しながら逐次流路を移して流れていたので、このためにできた河岸段丘のとには、旧河床も、河床堆積物もみられるし、その一部が、南は宇内、北は新宮辺の西縁麓の台地地形をなしているようにみえる。

  2、慶長16年(1611)の山崎新湖


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