北会津村誌 -013/534pag
盆地庶は後々までヤチとよばれる湿地で占められていたことは、近年まで名残を止めていたのでよくわかる。氾濫性の水害は主にこの湿地帯を蔽い、その周辺の新しい開墾地、新田集落などを襲うている。その開発途上の慶長16年の地震で、盆地で集めた水を一本の河川で排水する山崎の峡隘に地辷りがおこり、この阿賀川を堰きとめたことは、会津盆地の古い成因とも照合してみて、特筆しなければならない異変であり、災害であった即ちその一筋の排水口を堰きとめて、嘗てあったかも知れないと想定される、会津湖盆地の名残を彷彿させる湖をたたえた。これは盆地の滞水による洪水地域を予測する重要な手がかりにもなるので、洪水災害の項でも詳述する。
あいにく古い災害記録をとどめる塔寺八幡宮長帳には、慶長8年より19年までが欠けているので、この地震の生のままの記録は見つからないが、寛文13年(1672)、この災害より61年後で、体験者の古老もまだ生存していて、聞きとりも可能であったと思われる頃に、藩で記録した会津旧事雑考には、8月21日辰刻による大地震で、会津川下流が山崩れによって?塞されたことが記してあるので、勿論単なる伝説に類するものではない。
文化6年(1809)の新編会津風土記は比較的新しいものであるが、当時としては稀な詳細な地誌であり、これには地辷り関しさらに詳細な記述があり、当時できた湖の大きさまで記してある。次にその全文を掲げてみる。
「慶長16年8月の地震に、山崩れ川塞りしかば、蒲生氏数千の役夫を集めて疏さくせしが、なお本郡(耶麻郡の意)七箇村、河沼郡十六箇村の地を浸し、東西三十五町余、南北二十町余、氾濫して湖水の如くなり、これを山崎新湖という。加藤氏の時に至って下流を決して、水勢漸く半を減ぜしが、寛永8年(1631)9月の洪