北会津村誌 -014/534pag

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水に、再び?塞して水湛う。当家に至っても、寛文中風土記撰述(会津風土記、寛文6年-1662-完成)の頃まで新湖あり、漸々に疏さくして水道旧に復し今はなし。」

 とある。この水没した村の名は明記してないが、東西3.826キロは宇内より赤星・貝沼辺まで達し、南北2.18キロは山崎より青津辺に至っている。虚空蔵森の南斜面に地辷りの跡らしい地形があり、その下流小田高原にわたる山崎峡谷の斜面は、現在にも及ぶ地辷りの常習地であるから、この辺に起きたものと思われる。すぐ掘割って排水はしたが、難工事で完全にはゆかず、さらに20年経た寛永8年の洪水で再びふさがり、会津旧事雑考には寛永末年(1643)まで32年間も水だまりになって残っていたと記し、新編会津風土記には、寛文六年(1666)まで55年間も新湖が残っていたと述べてある。

 この滞水地域を、詳細に地形調査してみると、宇内・上宇内・大上の東緑から、合川・青津・青木・沼越の西北縁、阿賀川を北に越えては、山崎の東縁から、会知・赤星・貝沼の南3〜400メートル辺の、低い段丘崖としてみえるものが、その山崎新湖の外周ではないかと、地図の上で復現してみて、考えられる。この地域は、阿賀川の計画的大改修築堤前までは、洪水毎の氾濫常習地域で、嘗ては青木その他の洪水常習部落で、冠水を見越して藍を栽培したり、高仕立ての桑畑に充てたりしていた地域に相当する。その地震で倒壊して、応急に再建した新宮熊野神社の拝殿などには、その生々しい資料が、現物として残っている状態でさえある。

   3、複合扇状地による堆積地形

 盆地底は、ほぼ中央を東から西へ流れる日橋川と、その注ぐ阿賀川の線で二分される。北半は大塩川、出付川濁川などの扇状地があわさっているが、南半は大川と宮川の扇状地が、関山方面から流れ出る濁川(北半と同名


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