北会津村誌 -025/534pag

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地下にボーリングして、地層の堆積の模様を調べるとわかる。人々はまず山麓の洪水の災害のない地域に最初住みついたに違いない。会津の文化発達の過程はそれをよく裏書きしている。しかし盆地底の氾濫原は、災害度も多いが、土地が肥沃であるから、やや高みの中州などには、相当早くから点々と住みつき始めたに違いない。会津坂下町の青津村西は、大川・鶴沼川の合流する氾濫地域であるが、ここに大亀甲館・小亀甲館の、会津では勿論、東北地方でも恐らく有数の大規模な前方後円墳があり、北会津村地域でも田村山の糠塚古墳は、詳細は文化発達の項で述べるが、発掘された出土品もあるので、古墳時代の前方後円頃であることが確認されている。しかも大洪水ほなおつづき、現在の大川の放流は、北会津村の扇状地上を横行していたようである。

 古い洪水の様態は地下の埋積の層序と表面の地形をみると大体は掴みとることができる。しかしこれでは、時代の配列がわかるだけで、何年頃とか、何年の洪水にそうなったと、明確に指摘することは困難である。

 はっきりと記録を追うことのできるのは、幸い寛永12年(1672)に松平藩の始祖保科正之公が向井吉重に命じて書き上げさせた「会揮旧事雑考」というのがあり、さらに断片的ではあるが、塔寺の八幡宮に、古くからの祭事録である、俗に「長帳」と呼ばれる古記録があり、その裏書きに、当時の会津の天災地変のことが書いてある。これらを主軸にして応永26年(1419)の洪水と、その当時の流路、河川の名称の変遷をふりかえってみることにする。

 鶴沼川という名称は、現在会津高田町東を北流して、関山・大八郷方面より流出した濁川と合流する辺よりはじまり、会津坂下町北で大川に合流するまで通称されている。

 この濁川に、佐布川付近で、東南方より、会津盆地を対角線状に流れてきた鶴沼川の本流があったことを考えてみるのがよい。これは5万分の1地形図、2万5000分の1地形図の古い陸地測量部の実測図をみても、すぐ見


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