北会津村誌 -026/534pag

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取れる地形であるし、航空写実などでみると一層明瞭になる。これが会津本郷町東の岩崎山付近から分れた大川の分流であるが、応永26年の大浜水では、大川の本流がこの鶴紹川に注ぎこんで、川南、館の内付近に大災害があったと記録している。この頃まで大川の本流は現在のように固定しておらず、旧鶴沼川跡に時折流れ込むような洪水を起していたと思われる。

 大川の名称は何時頃よりできたか、よくわからない。大きな川ができたから、これを通称して、何時か本名になったのかも知れない。寛文12年(1672)の会津旧事雑考には、応永26年鶴沼川の決潰した図に大川蟹川、佐野川の名称を入れている。既に佐布川に向う鶴沼川跡は鶴沼川堰などともいわれ、既にほぼ現在の大川の流路はできていたと思われる。それが洪水のために鶴沼川堰に決潰したのであるから、まだ河筋は固定したとはいい得ない。7年経た応永33年(1426)にも、さらに後述する紆100年後の天文5年(1536)にも、大洪水があって、この鶴沼川堰に放流している。その洪水以後が現在の大川は名実共に、固定したということになる。

 鶴沼川の名称は、現在も大川の上流に、明らかに残っている。湯野上のちょっと下流、小野の付近で、二岐山北麓の岩瀬郡湯本方面から流れてくる河川名で、現在この上流に羽鳥ダムができて、この上流の水を阿武隈川流域の開拓、灌漑用水になっていること、時に大川流域に渇水を釆す困として、会津盆地の農民の関心を集めている。

 このことは寛文4年(1664)に書上げて、寛文6年(1666)山崎闇斎により脱稿された、俗に古風土記と呼ばれる、会津風土記にも、準文調であるが、次のように記されてある。

 鶴沼川 俗呼曰大川、源二、一出岩瀬郡鶴沼、西流、経会津郡鈴嵩麓至自岩村、一出会津郡山王峠、北流、経


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