北会津村誌 -027/534pag

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 糸沢村至荒町、東北流、歴田嶋村、過長野村、北転、至塔沢屈曲至自岩村、二水合而北流至小塩村、転西北流、至天屋村、北流、経向羽 黒及飯寺村、西過高久入河沼郡、至佐野村、曰佐野川、至立川村、入新橋川、此川在昔自岩崎北麓西流、西本郷西北、経上荒井至下野、 西南転、至大嶋安田之問、宮川与之合矣、鮮魚甚大甚美此会津大沼二郡之界也

応永26年の洪水は7月28日で、塔寺長帳にもそのことが記してある。つい最近の昭和31年(1956)にも7月17日に大洪水があったが、梅雨明け期の連続雨で、この地方では古くから大災害をもたらす常習的の大洪水であったと思われる。会津若松市の城下町にも大異変があった。現在の湯川であるが、当時黒河川又は黒川と呼ばれていた。それまでは興徳寺前にかけてある通津橋というのが湯川であったと会津旧事雑考にのっている。この洪水で湯川が鶴が城の南へぬけたので、以後、城廓の防禦、城下町形成のため、人為的にも改修して、黒川を城廓の南に固定したと記している。湯川扇状地も河筋の変遷が常なかったから、このようなことがあっても、現在の地形に照合して無理はない。

 この年の黒河川の洪水は相当激しいものであったらしく、決潰、放流して鶴沼川に合流、さらにこの鶴沼川が会津盆地を対角線に横切って、旧河跡、鶴沼川堰をたどって佐布川辺で宮川、濁川に合流して、大氾濫を起したことになる。

  2、天文5年(1536)の白鬚の水

 当時この洪水の災害は相当著大で、印象的であったものか、漂流する民家の屋根に、白鬚の老翁が座って流されていったとか、今にこれを白鬚の水として古老は伝えている。この記録は、白鬚の老翁に関する限り、他地方


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