北会津村誌 -028/534pag

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にもよく伝えられている大洪水にまつわる伝説に過ぎないと思うが、洪水の内容は会津旧事雑考に詳細のっているので、語り草としてでなく、大体信拠性のあるものとみても差支えないように思う。

 旧6月28日とあるから、応永26年の大洪水と同じような、梅雨明けの常習的な長雨による大洪水であったと思われる。久しぶりで鶴沼川が向羽黒から岩崎山崖下で西に押切り、旧河川跡の鶴沼川堰をたどって佐布川方面に西北流し、濁川・宮川に合流して大氾濫を起している。応永26年から7年経て一度放流したとみえているが、天文5年まで110年を経ており、鶴沼川堰の大川筋跡であることを確認している古老は生存していると思われないから、全く驚異的な大放流で、当時の川南、館の内に住む人々の日をみはらせたに違いない。この頃までには、大川の川筋も大体固定し、いくらかの河川改修工事なども施されているかも知れない。しかもこの頃まで、旧鶴清川の河道地形は生きていて、氾濫すれば、旧河筋へ流れ込む状態におかれていたと思われる。

  会津旧事雑考による天文5年の白鬚の水の記録は次のようである。

 天文五年丙申
 六月二十八日洪水、民屋亦多漂流、時白鬚老翁坐屋棟流去、因俗称白鬚水、至今譬為洪水極、今日鶴沼川亦大北決為今大河云、精  繹自往古迄今日、此水脈本瀬、自白河郡境羽取村鶴沼出、(雖緒水合自源頭直去者鶴沼下流也、故称乎)。直北流下至千向羽黒東  北岩崎崖下、西折直去者二里余激、橋詰村東畔転直北西去、與宮川及赤沢川等合、下流至山崎入新橋川、自関山峠界至稲川界大沼  与会津両郡界也。然今日自岩崎西至橋詰村二里余埋為障。(比間今為田云古河新田、開寛永始)。下流大決北流、経蟹川及佐野  等村入新橋川、其自岩崎辺至蟹川之間呼云大川。(此大川之分応永之頃可謂黒河川)。与旧鶴沼下流中絶却去為別川、徒自岩崎北  崖下、(去百歩計旧鶴沼川水脈也、自其去北西者杏)。疏支流去五六里至安田村、東与宮川合自此合水下流者亦旧鶴沼之水脈也。  故自彼岩崎迄合水之地五六里之支流、名鶴沼堰、水細用水耳、而却鶴沼川之旧名矢焉。是如上説、今日岩崎与橋詰其間二里余、埋

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