北会津村誌 -030/534pag

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 東館者在焉。然西十二村郷亦称黒川乎如此、則彼大川水脈有黒河川名者、益親矣、太守父子居可有東西者、李徳紀弁焉。

   3、慶長16年(1611)の地辷り洪水

 東京大学で編集している、権威ある理科年表などをみると、古くは会津地方にも、しばしば、相当大きな地震があったようにみえている。近年も新潟地震の餘波が激しかったが、慶長16年8月21日に起った地震は、どうも会津で起ったものとしては最も大きかったのではないかと思われる。柳津の舞台が崩れおち、塔寺の観音堂、喜多方市慶徳町の新宮拝殿が倒れたと、いろいろな記録にみえている。会津旧事雑考には「8月21日辰刻に大地震があって、会津川下流が山崩れで?塞し、河水が氾濫して会津四郡を浸そうとした。時の藩主蒲生氏は再封の秀行であったが、重臣の岡半兵衡、町野左近等に命じて下流を掘らせ、湛水は三日で通じた。しかし低湿地で余り水が湛えて山崎湖ができた。だんだん水が涸れて、寛永末年(1643頃)、大体耕作ができるようになった。」 〔原文を意訳) この地震による死者は3,700名ともある。

 耶肺郡誌の変災編には、「この山崎湖が東西35町余、南北20町余氾濫してでき、次の加藤氏の時下流を決して、水勢が漸く半減したが、寛永8年(1631)9月の洪水で再び?塞して水を湛えた。保科氏の時、寛永の頃(1661〜1672)なお湖があったがだんだん掘って水道をもとに復した。」と書いてある。山崎新湖とも呼ばれていた。その際の山崩れの場所は明らかでないが、この付近が地辷りの起り易いことは、現在も断続的に起っているので知れる。降雨による洪水のことはみえないが、旧暦を現在に換算してみると、台風期でもあり、地震にともなって大地辷りが起って、山崎の峡隘を堰きとめたものと思われる。

 青津の大小二つの前方後円頃が水に浸って、山麓より大小2匹の水に浮ぶ亀の形に挙え、大亀甲館・小亀甲館


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