北会津村誌 -031/534pag

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と名づけるようになったという伝承、現在の地形、洪水湛水の様態などから推定して、勿論周囲の形は複雑なものであったろうが、昭和35年10月建設省北陸地方建設局阿賀川工事々務所の依託をうけて「阿賀川水害経済調査」を行なったさい、詳細検討して、この山崎新湖の大きさを大体復元してみたが、山麓の宇内・山崎より、東は大沢・会知・赤星・貝沼辺から、南岸は立川辺まで浸水し、南北また田原付近から青津・青木辺に及んだであろうと思われる。

 現在濁川の下流、宇内東部の鶴沼川下流には、治水工事が竣工するにつれて、見事な水田が開かれているが、もとの両岸の桑畑地帯、現在の砂地の野菜畑の分布地域は、古くは山崎新湖の湖底、会津盆地の集水した洪水常習地の氾濫原に相当しているとみられる。これが泡の巻、土掘、袋原の掘さく工事の遂行につながる古い洪水記録とみられ、短くみても、その間実に310年の洪水の災害が、宿命的のように、基底的な問題として、横たわってきていることになる。

 北会津村はこれらの南部、上流氾濫地域を占め、洪水の際の氾濫は勿論、山崎の捷水路開さく工事による河水面の低下が、逐次大川・鶴沼川の水位低下、氾濫に及んできていることを承知していなければならないわけである。

  4、寛文年間(1661〜1672)の洪水被害と治水政策

 寛文年間は会津藩政が内政に重点の移った時代で、会津藩の政治記録ともいうべき「家世実紀」にも、12年間に7回あった洪水の治水政策の記録が述べてある。この要点を原文から意訳して拾ってみる。

 覚文7年(1667)7月17日の洪水については「今暁7つ時より大雨降出し、朝5つ時より昼9つ時まで


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