北会津村誌 -032/534pag

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降りつづけ、湯川は満水、南町橋向ならびに中野村漸く水押上げ、南町、河原町薬師堂の橋半分押流し、半兵藤町の橋流れ落ち、町奉行、御普請奉行まかり出、大川、応湖川、鶴沼川も洪水で郡奉行早々にまかり出、青津組慶徳組、塩川辺および日橋川、湯川満水、安積郡福良辺も大水の由、ついては安田孫兵衝を当年申付けておいたので、この節の用を定めたから、新寺(飯寺)、幕の内、河原町辺、水難さして損亡がなかった由である。大川筋西の方2、3ヵ所大水の時心許なかった場所も、当年の普請で大分の水押えになったように飛脚で知らせてきた。

 中荒井組で小家5、6軒押流され、所々で2、3人死んだ。南山より伐出した御材木ならびに商売材木、薪、又御家中で用いる湯の入山で伐置いた薪など大分押流された。」

 この年は大川の提防工事が行なわれて、そのやや詳細な記録がみえ、その効果についても付記してある。家世実紀に堤防工事の効果を記した最初である。

 「8月15日大川川除御普請成就
 大川筋度々の洪水で損じたから、常詰の御普請奉行島田覚右衝門、同御勘定人安藤市兵衛は川除のことは功者であるから、去年4月江戸よりこられた郡奉行井口孫五左衛門、笹沼与左衛門、佐藤武兵衛、桜井圭之助と話合い、橋爪組本郷町領分岩崎下で恩掘堰より中荒井組蟹川村までの間、大川筋1里14町御普請仰せつけられた。御入用の米金諸材人足は明細に取調べ、材木のことは山奉行井上六大夫に申付け、この人足は日雇に申付けた由である。

 御代官安田孫兵衛は川除の筋は鍛練しているので、川筋普請申付けたから、当年にも転じ、郡奉行共々孫兵衛を遺し、同年10月2、3日川筋へまかり出、見分の上、当年蟹川村より真渡村までの間、17町大川筋川除普


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