北会津村誌 -033/534pag
講、覚右衛門申付、丈夫に出来た。
人足62、112人と見積っても増減はあるだろう。足まとい150人程ずつお貸しなされたら、人足の中1万4〜5,000人も減るであろう。恩堀より蟹川まで川除のことは、覚右衛門殿が見分次第下奉行一人の割に足まとい20人程、同人足3〜4,000人程毎日差出し普請させた。人足には去年通り1日1人米1升ずつとらせる。
6月になって17日より18日まで雨降り、大川増水したが、今度孫兵衛に申付けた新寺(飯寺)の川除及び去年覚右衛門に申付けた蟹川村川除は破損しなかった。
7月になって向羽黒岩崎の下一ノ堰まで、米塚の宮前3ヵ所普請、同人足1万5〜6,000人にして出発たその8月までに、盆後より足まとい3′40人に増し、7月17日の洪水で、去年、当年普請した川除、そこここ破損したから、こられの所をも修覆した。この人足6,000人随時申付けて普請させた。」
翌8年(1668)大川筋川徐御普請成就の項には次のようにみえ、安田孫兵衛が当時勝れた技術者であり、堤防工事の緊要なこと、人足は農閑期に求めることなど、当時の河川修築の様子が大体うかがわれる。
「大川筋川除普請は去年から丈夫に仰付けられたから、去年の洪水にも田地の水損がなかった。ついては御代官安田孫兵衛はその中から川除奉行人に仰付けられ、今月も危険箇所修築仰付けられた。向羽黒より坂下街道辺までの川筋は、年々普請をしなくては叶わない箇所がある。
川除のことは肝要であるが、農事を妨げ、民力を費すことであるから、よく勘弁してやらなくてはならない。小奉行1人足まとい15人差添え、その外人足御扶持方など、諸事去年の例で御普請を相始め、農隙を見合い、百姓共手すき次第遺されるようにする。