北会津村誌 -034/534pag
蟹川村の前より向羽黒岩崎の間の堤4〜50間済み、10間の内外で水除出をこしらえ、東は一の堰より14町余まで、飯寺街道まで一面普請したから、御加判の旨、その折はまかり出、見分するから、人足共格別精を出して全く成就させるように。」
このように、ようやく治水工事が緒についたのに、10年(1670)、11年(1671)とひきつづき大洪水に見舞われている。特に11年は、蟹川・真渡(真綿)間の工事の最中の羅災で、治水工事が如何に難渋であったかは、当時より既に生々しい記録として残されている。
5、天和元年(1681)より明治維新(1868)に至るまでの主な洪水
天和元年8月7日に大洪水のあったことが家世実紀にみえているが、主に湯川と飯寺の土手100間が押切られ、大川の東岸に氾濫して、城下町の穢多町・材木町・新町・侍屋敷小路・川原町・片原町・柳原などが浸水したとある。大川西岸の北会津村の被害についてはふれていない。
元禄9年(1696)6月28日にも湯川・大川が氾濫して、ところどころ欠け崩れが起ったとある。ただし「飯寺より一の堰までの間は損害がなかった」とあるが、ここの提防は寛文8年(1668)に名技術家安田孫兵衛が普請した記録があるから、その治水効果があったためと思われる。しかし翌々元禄11年(1698)7月27日の洪水には、一の堰村より塚原村までの間、土手7ヵ所、562間が押破られたとあり、たえず見廻って修覆しないと、その洪水防禦は容易でなかったこと、今に変りはなかったらしい。
享保7、8年(1722、3)の洪水は、増水位がこ年ひきつづいて相当大で、これが山崎の峡隘で押えられて氾濫し、その水位は新宮馬場の中頃まで達し、田原・大木・大沢の諸水が浸して湖のようになったともあるか