北会津村誌 -035/534pag

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ら、この付近ほ、会津盆地のすべての水を集水するので、地辷りが起きて塞がなくても、峡隘そのものが、山崎新湖滞水のような様相を呈し易かったのであろう。

  6、明治以後の主な洪水

 明治21年(1888)7月15日の磐梯山噴火は、会津地方にとっては有史以来の大異変であったが、会津盆地の中央部にはあまり影響がなかった。

 明治35年(1902)9月28日の大浜水は、明治以後最大のものであったらしく、死者102人を出したと記されている。

 明治44、5年(1911、2)とひきつづいて大洪水があったが、主に盆地北半に被害が大で、田付川、耶麻濁川の増水は9尺余とある。

 大正元年、2年(1912、3)と引きつづき大洪水があったが、大正2年には洪水量の基礎となる降水量がきわめて多く、洪水も最高水位の記録がとられて、大正8年(1919)よりの改修15ヵ年計画の基礎資料となっている。下流の日橋川・阿賀野川の洪水調節については、既に猪苗代湖の戸の口用水の通水が、明治14年(1881)7月25日より行なわれ、ひきつづき明治45年(1912)の日橋川発電所建設以来第一第二と発電所が建設されて、16橋による湖面調節が行なわれて、相当の効果を発揮していた。

 会津盆地の洪水は、古くから東風が強く吹けば大川が氾濫し、西風の時は宮川が洪水になるといわれている。これは大川の水源が奥会津の田島地方にあり、宮川の東壁は博士・明神などの連嶺に限られ、その西斜面は只見川に注ぐ、地形的影響による増水差であると思われるが、大正2年の降水量は宮川流域にいくらか少ないかにみ


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