北会津村誌 -037/534pag
称としては阿賀川として統一され、只見川合流以下は旧来の阿賀野川を用いて区別し、その第1期の大工事として同年10月26日、慶徳村の真木部落を包む泡の巻の蛇行部を開さくする事を始めた。これは真木部落を袋で包むようにして3,000メートル迂回する、通称泡の巻の急崖深潭部を、その袋のロを161メートル切って捷水路をつくるもので、昭和5年4月19日、九ヵ年の歳月を費して一応通水の運びになった。しかしこの地域は慶長16年の記録が物語っているように、地辷りの常習地で、同年6月12日から13日にかけて約520,000立方メートルの地辷りが起り、つづいて昭和9年、11年と三回連続して起った。このために津尻掘さくという別個な工事を派生させて、完成は昭和8年3月31日、12ヵ年の歳月を経たことになっている。
2、土掘地内捷水路開さく 長井部落西部には土堀の蛇行がある。迂回路は1,100メートルで、これを口頭部150メートルに切りつめようと、大正12年5月27日泡の巻工事と並行して着工された。昭和5年3月25日、砂岩・礫岩など掘崩しの難工事もあったが、予定通り完工、通水した。
3、袋原地内捷水路開さく ひきつづいて最も大きな袋原を迂河する6,000メートルを500メートルの捷水路にする工事が、大正14年5月21日着工された。この工事は計画延長約500メートルを、切取り最高39メートル、河底幅員50メートル、土量1,403,400立方メートル、工費は当時として42万円余昭和13年8月31日に完工した。
この三捷水路開さくによって、10,100メートルの自然迂河路が人為的水路810メートルとなり、9,290メートルを短縮したことになる。この落差は9メートルである。
4、宮川薪水路開さく この三つの捷水路開さくにひきつづき、湯川新水路を昭和35年3月31日完成なお工事継続中という日橋川筋の開さく工事というのがある。湯川は応永26年(1419)の大浜水で、城