北会津村誌 -038/534pag

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廓の南に移り、東につきぬけて鶴沼川に合したこともあるほどであるが、天文5年(1536)の白鬚の水以後は、大体現在の大川筋が固定し、その両側の堤防工事も逐次成り、川底は堆積によって上昇気味であるが、特に近年水位は低下する傾向にあり、これをつきぬけて現在の北会津村地域内に氾濫を起すほどのこともなくなったから、詳述ははぶいておく。

 ただ宮川、鶴沼川に通じる流域は、旧大川の流域で、集水地域も広く、氾濫原も幅広いため、たえず洪水の災害におびやかされている。それで宮川が阿賀川に合流する地点より約10キロさかのぼった栗村堰のやや北から東北の方向に、一直線に、阿賀川の宮古橋のちょっと上流に、新たに水路を開さくして、宮川の水を放水しようとする計画がすすめられた。

 この計画も実は阿賀川改修の当初の計画にあった。宮川は盆地の西南、上流高橋付近で山地を離れると荒れ川式になって、天井川の堤防決潰し、付近は一つの洪水地域となり、さらに中流では、西から赤沢川・佐賀瀬川、東部から濁川・蓼川をあわせて、旧鶴沼川の水が流入しなくなっても、再び別個な中流的?流による堤防決潰が起るようになっている。宮川新水路は、この中流の飲みきれないほどの水量をかかえて、下流に滞水する洪水除去の目的で計画されたものである。

 もともと宮川は、水位が阿賀川より低く、古く、安田・佐布川付近で阿賀川をも合流していたことがあるし阿賀川・宮川間の盆地の傾斜地形によって、この間の水量、それには阿賀川扇状地の末端湧水、阿賀川よりあげた灌漑用水など、殆ど宮川にそそぎ入れる。この点からは、盆地に出た阿賀川は、日橋川をあわせるまで、注ぎ込む支流のない、特異体質の河川であり、湯川、せせらぎ川も、日橋川に合流してから、最後に下流であわさるので、盆地に出て、中流で急激に水量を増すことがない。それに対して、宮川は中流で、盆地の降水量をも集


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