北会津村誌 -039/534pag
水して、急激に氾濫を増大する特色をもっている。
これを中流において、宮川より阿賀川に放流することは、盆地南半の河川の変遷からと、盆地の地形からは逆工事で、約3,000メートルの水路の長さは、嘗ての旧鶴沼川とは逆に、対角線に東北に放流して、宮川新水路取入ロの真東よりは阿賀川をほぼ3,000メートル村田まで下ってゆくほかない。
この新水路は、盆地中央の古い開拓地域の良田の拡がる、旧金上村三部落の30町歩にわたる潰地を含むので原地の村民の大反対もあり、昭和8年11月16日、手掘から着工されたが、満州事変にひきつづく第二次世界大戦などもあって中絶され、完工したのは昭和30年になっている。これによって栗村堰以北の旧宮川は、水門一つで完全に閉塞され、洪水時は完全に新水路に導入される結果になり、洪水常習地古坂下以北の宮川下流は災害の不安から一応まぬがれ得た観がある。
5、計画改修後の昭和16年(1941)の洪水の様態 阿賀川の大規模な改修計画の着手は大正8年で、最初ほ15ヵ年で、昭和8年一応完成の予定であったが、東京震災、満州事変後の引きつづく戦争などで、7ヵ年延長して22年度まで、その他当初の計画にもいろいろの変化はあったようであるが、大体の大きな改修計画が実施されて、そこに大洪水が襲った場合、どれだけの効果が、工事計画者、その施行者、および土地に住みつく人々に納得させ得たか、その不幸な第一次試験ともいうべきものが、昭和16年7月の洪水であった。
災害記録は相当詳細にとられるようになった。これは何時も会津に大災害をもたらす、梅雨がほぼ上ろうとした頃の台風によるもので、中心示度は720ミリメートル、遠州灘より上陸して、ほぼ中心が会浄地方を通過し、21、22日の連続雨量は、大川上流田島地方が特に多く、田島では258.5ミリ、会津若松山148.9ミリ、坂下106.4ミリ、喜多方92.5ミリと、大正2年の場合より広い範囲に、多い雨量があった。特に