北会津村誌 -042/534pag

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かに低かったことと、滞水時間の短かかったことが、捷水路工事の効果などとして目立っているのみである。

 この、つい先頃の洪水でさえ異常に氾濫、堤防を隋所で決潰してみると、このような分布を呈してくることに嘗て人々が堤防をつくらないで、自由に放流した情景を想像してみることができるかと思う。即ち大川と鶴沼川の間には現在の北会津村より坂下の東北にかけて広い中州があり、今これが宮川放水路によって二つに区分されているが、この中州を木曾川下流などでは輪中とよんでいる。人が住み始めては、この中州の四周に土堤を築きあげて災害を防ぎ、耕地を開拓して、永く住みつこうとしたに違いない。この中州の定住、文化の発達は決して新しいものではないが、その四周の氾濫は、現在もなお、時に異常の集中豪雨などによって、旧態を復元することのあるのを、まのあたり見ることがあるというわけである。

 6、昭和22、23、24年(1947,1948,1949)の台風による洪水 昭和22、23、24年と連続して、いずれも9月に台風による洪水が起っている。この中ではカスリン台風によるものが大きく、9月13、14、15日の連続雨量は、大川上流の南会津地方が、湯本で326.8ミリ、田島で212.8ミリに達した。この台風の名称は、当時日本はアメリカ軍の占領下にあり、このような特殊な名称が付されていた。若松市は低かったが、それでも158.9ミリで、この土地では第三位の雨量記録を示している。喜多方市でほ、12日より16日までの5日の連続雨量となり、これもこの地方では稀な225.0ミリに達している。

 このために宮古の最高水位は4.65メートル、山科で7.00メートル、改修後では、昭和16年に次ぐ高水位である。床上、床下浸水併せて640戸、宅地42戸、水田2、258町歩、畑地965町が流失、埋没している。人的被害は不明であるが、恐らくなかったではないかと思う。


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